デスメタル布教日誌


上に行くほど新しい記事です。

10/15

 日本道路公団総裁の藤井治芳氏と石原伸晃国土交通相との争いを報じるニュースを見て、ふと発見したこと。
 普通、政治と金が絡む疑惑を受けた官僚や組織管理者は、その罪状が確定する前から悪漢と決め付けられて糞味噌にこき下ろされるものだが、今回の藤井総裁に関しては敬語さえ用いている局が非常に多い。
「総裁を辞任して頂くにはかなり時間が掛かると思われるのですが云々」
 などという表現は、鈴木宗男氏の時でさえ用いられなかった・・・と神父は記憶している。
 戦前からの官僚一族出らしい藤井総裁の政治的影響力が、今の厚顔無恥なマスメディアさえも尻尾を丸めて恐れ入るほどのモノだとすれば、或いは小泉政権にとって致命的な存在となるかもしれない。

 ちなみに神父は小泉政権支持であるが、道路公団の民営化には反対である。
 道路、水、警察の3つだけは民間に委託すべきではない。これらは社会の根幹を物理的に支える「採算を度外視してでも全国民に対し平等に提供されるべき事業」だ、というのが神父の考えだからだ。
 官民いずれが運営しようが、人が介在する以上は不正が発生する。ならば社会奉仕と利益追求のどちらを表看板にすべきかで判断するのが当然なのだ。

 蛇足だが、こんなテーマもTRPGの参考にはなる。
 例えば・・・
 それまでは「公団」という市場に寄生することで緩やかな経済闘争に甘んじていた大手ゼネコン各社が、富を分配しあうべき共通の寄生先を失った末に各自の判断で営業地域を奪い合い、熾烈な競争から経営基盤を保護するために地域共同体を取り込んで王国化していく。
 民間の意識はコンピュータ・ネットワークと小社会における鉄道交通網の拡大に集中しており、小社会と小社会、つまり地域と地域を物理的に連絡させる「道路」という存在の重要性は認識されづらい。民営化された「道路という市場」が誰の手にあろうが、それに対して危惧を抱く市民は少ない。
 そして気が付いた時には、地域の道路に関する利権を完全掌握したメガコーポが物流を支配し、コンピュータ・ネットワーク万能の夢は物理世界の手痛いしっぺ返しによって破られる。
 ・・・という具合だ。

 ゲームの背景となる世界を創造したり、そこに生まれ育ったキャラクターを作成したりするには、まず
「どういう経過を辿って、ゲーム開始の時点まで辿り着いたのか」
 を空想しなければならない。
 その世界には魔法があるかもしれず、そして魔法は誰にでも扱える便利な力として教団の神殿で広められているかもしれない。だが、そうした魔法が医者や鍛冶屋を社会的に淘汰してしまう、という事は考えたことはないだろうか?

 特にルナル・サーガ、お前だ!

 考えてみて欲しい。
 人の命を預かる医者という職業が、魔法さえ使えば数秒で患者を癒すことができるにも関わらず、敢えて熟練と知識と時間を要する医療技術によって患者を救おうとするだろうか?
 数打ちの乱造品に<物質硬化>の魔法をかけただけで熟練の業物に匹敵する剣を作れるのに、筋力と観察眼と技量を数十年がかりで鍛え上げた鍛冶屋がその労力に見合うだけの売上を手にすることができるだろうか?
 話が飛びに飛んだが、つまるところ観察眼を養い、常識を働かせ、判断基準となる知識を蓄えていけば、日常のニュース番組ひとつでもシナリオソースやキャラクターのモチーフとして役立てることができる。
 つまりはそーいう事なのだ。

 あくまで日記なので、徒然なるままに駄文を書き連ねる事を容赦して欲しい。



9/30

 深夜アニメ『LAST EXILE』が、気が付けば最終回だった。
 魅力的な題材であった分、僅か1クール(という言い方であってるのかな?)で終わってしまったのが残念だ。
 おそらく、スチームパンクもしくはエアロパンクという題材に興味の無い人にとっては、何が面白いのかわからない作品というのがストレートな評価となるだろう。
 早い話、話のスケールの壮大さに比べて放送期間が短すぎ、展開は駆け足、設定は詰め込み、キャラクターの登場や裏設定の発揮が押せ押せで「このキャラ(or設定)は何のために出てきたんだ?」という疑問が山積してしまうのだ。実にもったいない・・・

 一番「結局、何なんだったんだ?」というイメージが顕著だったのが、シルヴァーナ号艦長アレックスと、ギルド総帥デルフィーネの弟にして主人公のライバル的存在ディーオだ。
「ひょっとして、ソレって重要なキャラなんじゃない?」
 という貴方の懸念は正しい。
 アレックス艦長はあくまで民間パイロットである主人公クラウスに対比した「冷徹な戦争屋」であり、しかも物語は主人公個人の思惑を無視して無敵戦艦シルヴァーナを中心に展開するのだから、その艦長が「結局、何がしたかったんだコイツは?」という有様では話にならない。
 無論、彼は彼で様々な因縁を抱えており、それゆえの秘密主義、孤立主義だったわけだが、いかんせん本人の口から語られないのであれば伏線が明かされるのを待つしかない。が、短い放送期間ではそれも叶わずといったところだ。
 ディーオはディーオで「誇るべき父親を持ったという事以外、特筆すべき出自も持たない主人公クラウス」に対して「世界的規模の影響力を持ち得る極めて特殊な出自を抱えた同年代のライバル」であり、自由な立場のクラウスを羨みながらも、出自とは関係無いヴァンシップ乗りの力量で競い合い、近い将来に待ち受ける彼自身の「破滅」に目を反らし続けるという設定を持つのだが・・・結局
「視聴者の立場から見ればディーオが何者なのかは最初からバレバレ。しかもクラウスがその事実を知った頃には物語りもクライマックスで、とてもじゃないが彼の事になんぞ構っていられない」
 というのが痛かった。もっと放送期間が長ければ、物語のクライマックスに当てこんで僅か数分でケリをつけてしまったりする事無く、本来の作品コンセプトである「航空冒険小説の雰囲気」を漲らせた対決シーンを独立した展開として用意することができただろう。
 なにせ、ディーオが主人公クラウスを呼ぶときの名の由来となり、また彼が誇る父親譲りの得意技でもある「インメルマン・ターン」を披露する暇すらなく決着がついてしまったのだから話にならない。まあ、クラウス機は素人同然の少女を後部座席に乗せていたので、もし披露していたら少女がどーにかなっていただろうが・・・

 エンディングも極めて難解であった。
 プレイステーションの古いソフト『ベルデセルバ戦記』をプレイしたことのある人なら「ああ、こーいう展開だったのね」と頷き感動する場面であるが、ネタが理解できない人には「ラピュタと思わせて実はSF?」と呆れ返るところだろう。
 クライマックス以前に、もっと前情報もしくは伏線として雰囲気を匂わせておけば良かったのだろうが、(誰もがある程度の予想はしていただろうが)駆け足気味のクライマックスにそれこそ当てこむような形で唐突に「今までの作品イメージからは全く異質の設定」を「実はコレが真の姿だ!」とばかりに出されても、やはり辛いところだろう。
 作品タイトルとラストシーンに込められた「この作品が示す結論としての世界観」を理解しきれた人は、パンク世界の楽しみ方を実に良く心得た人だと明言できる。
 神父は以前から、エロもグロもないこの健全な作品がなぜ深夜枠なのか不思議に思い続けていたが、早い話が「一般ウケしないから」だという事実を理解せざるを得なかった。

 放送期間が長く、登場キャラクターたちの役割をきちんと演出できる時間的余裕さえあれば、誰はばかる事無く
「四の五の言わずに観ろ!」
 と断言できたのだが・・・あらゆる意味で惜しい作品だった。なんせ、リアルタイムで観る十年ぶりのアニメだもんなあ・・・



9/28

 友人にマザーボードを提供してもらえたので、この機にCPUを強化した。
 といっても奮発して最新式にしたわけではく、セルロン700MHhで頑張っていたところを同じくのセルロン1.8GHzに搭載し直しただけである。が、友人が言う通り
「マザーボードを買い換えたら「増設」というより、もはや「新しくマシンを組み立てる」って領域だと思う(笑)」
 まさにその通りです、有難う友人!
 まあ、ピンの数が(やっぱり規格遅れで)合わず、LED・・・つまり動作中に点滅する発光ダイオードが繋げられなかったり、そのせいで音を頼りにハードディスクが動作中か否か確認することになったりしたが、さすがに動作がスムーズになった。よしよし。

 以前チャットでゲーム仲間から「回線を良くすればネットゲームの対戦に勝てるかな?」という質問がきた事がある。
 神父もかなりネットゲームにはのめり込んでいるクチだが・・・いや、TRPGができない鬱憤を晴らすためであって、優先度はTRPGの方が圧倒的に高い、というより比較にすらならない・・・とにかくネットゲームでの勝敗や優劣のためにリアルの金を注ぎ込んでマシンスペックを強化する方々には共感できない、というのが神父のスタンスだ。
 無論、要求スペックすら果たしていないマシンにも関わらず、そのゲームが好きで好きでたまらなくて強引にプレイしている方にとっては切実な問題だろうが、既に推奨スペックを満たしてもなお、「他のプレイヤーより早く動きたい」「あいつより遅いマシンじゃ絶対に勝てない」と血道を上げる方々は、本当にゲームを楽しんでいるのだろうか?と疑いたくなる。
 無論、負けるよりは勝ちたいだろう。だが、「マシンスペックが上がったお陰で勝てるようになってきた」と嬉しそうに威張る方々は、神父から見れば名誉と言う言葉の意味を知らない野良犬の如き輩なのである。
 マシンスペックが理由で負けるならいいではないか。自分の力量が足りないせいではないのだ。
 むしろ「あのマシンスペックでこれだけ粘るとは・・・まともな環境を整えたらどれだけ強いんだ・・・?」と恐れられながら、それでも勝ちだけは相手に譲ればいいのではないか。

 よく、TRPGでも最初から伝説の武器や高額な魔法のアイテムを欲しがるプレイヤーがいる。
 神父もしばしばそうしたキャラクターを作成するが、それは
「キャラクター自身が切実にソレを欲し、かつGMが納得してくれるだけのリスクを支払って入手した物」
 に限り、なおかつ
「そうしたアイテムが無くてもキャラクターとしての存在は揺ぎ無く、かつそれを手にすればキャラクターがなお引き立つであろう実力と存在意義を充分に兼ね備え得た」
 と判断した時だけ・・・と少なくとも神父自身、心に固く誓っている。
 逆説的に神父は
「そのアイテムが無ければ存在意義が成り立たず、それを手にしている動機も根拠も薄弱で、そのアイテムが無ければプライドも実力も二流以下にならざるを得ない」
 というタイプのキャラに強烈なアレルギー症状を見せる。
 早い話、勇者のみ手にすることのできる剣がなければ勇者を名乗れないような身の程知らずはセイウチのケツにドタマ突っ込んでおっ死んで頂きたいわけである。
 ドラゴンスレイヤーでスライムを倒しても自慢にはならないが、かといって相手がまさにドラゴンそのものであったとしても、正しくそのためだけに存在するドラゴンスレイヤーでドラゴンを倒したからといって何か特別なことがあるだろうか?
「ドラゴンスレイヤーに認められた勇者がドラゴンスレイヤーを携えてドラゴンを倒す」
 ということが
「ドラゴンスレイヤーはドラゴンを倒す実力のある勇者しか持ち主として選ばない」
 だととするならば、ドラゴンスレイヤーはドラゴンを倒せて当然の事だろう。
 またドラゴンスレイヤーという剣が、実力の如何に関わらず勇者の血筋であれば誰でも無節操に持ち主と認めるの、というのであれば、結局のところドラゴンを倒したのはドラゴンスレイヤーであって勇者ではない。勇者は単にドラゴンスレイヤーをドラゴンの元へと運んだだけの配達屋に過ぎない。

 話はもやはパソの事とは関係なくなってしまったが、これが神父の切実な苦悩である。
 村正だのエクスカリバーだのデュランダルだの、そんなモノはいらんから、棍棒一本で竜王を野良犬か何かのように叩き殺せる力量とソレに見合った苛烈で壮大な冒険をくれ。



8/15

 終戦記念日である。
 そして神父は思想的には右翼の部類に入る宣教師である。


 そこでマウスホイールをぐりぐり動かす気満々のブラザー、ちょっとお待ちなせえ(涙)。


 今日は多くは語らない。これだけ言わせて欲しい。

「靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから、日本という国の未来のために戦ってお亡くなりになった方々に挨拶しに行ってはいけない」

 という理屈はどう考えてもおかしくはないだろうか?
 国際世論を考えて、とか、現実に悲惨な目に会った方々に配慮して、とかいう理屈は分かる。考慮するに値する価値観念である。
 だが、靖国神社に祀られているのは太平洋戦争前後のA級戦犯ばかりではない。というか、彼らとは何の面識も無い祖国防衛の勇士2百余万の英魂が、ほんの一握りの方々が墓穴まで背負わされた悪名のとばっちりを受けているのが現状なのだ。

 まして『A級戦犯』という烙印を彼らの墓碑に刻み付けたのは、戦犯以上に悪名高く世界の歴史に刻まれる極東軍事裁判、いわゆる『東京裁判』である。
 断言するが、この裁判の正当性を信じているのは、日本の敗戦に前後して共産主義を独立の助けとしたアジアの数カ国と、当事者である日本だけである。
 無論、戦争に負けたからには最高責任者とその周囲が生贄の祭壇に登らなければならない。それが現実だ。
 しかし、そうした復讐の儀式を熱望する側であったマッカーサー元帥やキーナン首席判事からして「誤りであった」と公式の場で発言しているように、この復讐裁判は法と公正の神聖な儀式にとって史上最大の汚点を残した代物だ。
 つまるところ、韓国や中国が論っている「A級戦犯が合祀されている神社に首相が参拝するのは許せない」という理屈は、根本から間違っているのだ


 う・・ちょっと長くなりそうだ(汗)。興味の無い人はここまでで結構、お付き合い頂き大感謝!


 理屈の面はこれでいいとして、それでは感情とモラルの面で靖国参拝の是非を考えてみよう。
 たとえば諸兄のご先祖様が葬られているお寺に
「家族を守るために過剰防衛してしまい、それを悔いて自殺した男性」
 と
「過剰防衛に便乗して無関係の人間を暴行凌虐の末殺害した、男性の友人」
 の墓があるとする。
 そして、この寺にご先祖様のお墓参りにきた諸兄に対し、お盆になると毎年「あの寺に1円でも納めたら町から出て行ってもらう」「犯罪者を弔うけしからん寺に近づくな」と脅迫の電話や手紙を送りつけてくる隣近所がいるとする。
 諸兄は彼らの意見を「もっともだ」と納得して、自腹を切って祖先の墓をよその寺に移すだろうか?
 諸兄の祖先、或いは父母は臨終の床で「お葬式なんか出さなくても良いから、お墓参りだけはきてくれよ。父さん待ってるからな」と言い残し、彼らの友人は今ここにある墓石の前で手を合わせ、「また来るからな」と堅く約束している。
 一方、諸兄のご近所は「あの寺にご先祖を祀り続けたら何も売らない」と脅迫しつづける。
 こんな近所に頭を下げて、こっそり人目に付かないようにお盆や命日を避けて、季節外れの墓参りを続けねばならないのだろうか?

 先に述べたように、靖国神社に祀られているのはA級戦犯だけではない。
 新たに「A級戦犯と区別した戦没者たちを参拝する施設を別個に建設しよう」という意見が出ているようだが、祖国の礎となった先人たちを弔うのと、他国の感情論に振り回されて墓穴をひっくり返す行為を選ぶのと、どちらが人として正しいかも判断できないほど、日本は民族の誇りを失ってしまったのだろうか?
 靖国に祀られている方々の大半は、「あの靖国で仲間たちと一緒に祀られる」ことをせめてもの慰めとして死地に赴いた。
 彼らに先立たれてしまった戦友や家族は、「必ずまたお参りに来るから」と心の涙を流してあの大鳥居をくぐる。


 諸兄は言えるだろうか?
 靖国のご神前に深々と土下座して、目をきつく閉じて一心に祈るご遺族に対して
「ここはA級戦犯が合祀されてるから、来年からは新しい供養施設に行ってください」
 と。



 中韓両国はそれを日本という国に強制しているのだ。
 文化交流があろうが、貿易によって利潤を分け合おうが、彼らは我々を友邦国とは認めていないのだ。



8/14

 一年ぶりに国大ゴールデンメンバーが揃った。
 が、残念ながらガリア戦記はプレイできなかった。リプレイ更新を期待して下さっている方々には伏してお詫びするより他は無い。

 <(_ _;)>

 他にも「久々にソードワールドをプレイしてみたら、細かい数値がぜんぜん思い出せなかった」「150CPで作成したキャラクターの力量をどの程度と評価するか」などの大小取り混ぜた問題が山積し、課題の残るセッションが目立った。
 まあ、検討すべき点が見つかるうちは健全といえるだろうし、まだまだ試行錯誤を楽しめるという意味で嬉しいストレスだった。
「上を見ればキリが無い」
 という言葉をしばしば聞くが、これはつまり
「頂点に辿り着いたと奢ることなく、ただひたむきに上を見つづけて進め」
 という事だと神父は考えている。
 久々に自身のTRPG黄金時代に回帰し、何かを得たような気がする。この感覚を次のセッションあるいはキャラメイクに活かしたい。



7/25

 とうとう教会も来訪者1万HITを迎えました。
 改めて信者の皆様に御礼申し上げます(深々)。
 普段、「知識は力だ」「TRPGにも勉強は必要だ」と唱えている神父ですが、改めて振り返ってみると、やはりTRPGを始めてから2年ほどの間は、何をプレイしても新鮮であったためか知識というものに無頓着で、そのくせゲーマーの常として得意分野での知ったかぶりが激しかったことを思い起こし

「あの惨状から、よくもここまで来たものだ」

 と感慨しきりです。
 というわけで、今日は謙虚に神父の失敗談を・・・

 あるセッションで、冒険者たちの乗る船と海賊船との間で砲撃戦が繰り広げられました。
 システムは『ハイパートンネルズ&トロールズ』でしたが、艦載砲のデータは角川版ではなく社会思想社(だったと思う)版の旧T&T掲載のハンドキャノンを流用・強化していました。
 最初の砲撃戦では冒険者たちが必死になって<危険回避>のセービング・スロー(ダイス判定)を行ったので何とか凌げましたが、海賊たちは地の利を活かして冒険者たちの帆船を岩礁へと追い込んでいきます。この目論見は成功し、岩礁によって思うように転舵できない帆船に対し、海賊たちのガレー船は風向きなどお構いなし(ガレー船は無数のオールで漕ぎ進む船なので、風任せの帆船と違って小回りが利く)に肉薄してきました。
 たちまち船は接舷され、海賊たちが舷側を攀じ登って斬り込んできます。さあ、いよいよ冒険者たちの出番です。

 ところがこの時、PCのうち戦士の武器はポールアックスで、索具の張り巡らされた帆船の上ではとても振り回せません。これを予測せずに戦闘バランスを考えたのは、GMの知識不足から来るミスでした。
 また、異なる喫水の船が横付けされ、あまつさえ片方だけが帆を広げている状況では、甲板の上はひどく揺れてしまいます。このような戦場では魔術師は呪文を唱えるたびに<魔力集中>ロールを振らなければならないのですが、この事実は戦闘が終了した後の小休止になってはじめて指摘されました。
 それに前後して、怪盗は事もあろうか「この戦いは確実に負けるようにシナリオが組まれているはずだ」と邪推し、ひとり逃走するために空の大樽をひとつ確保していました。この試みの是非は論ずべくも無いことですが、そもそも航海中に樽が「固定もされずに甲板のそこらへんに転がされている」なんて異常事態、起きるはずもありません。当然、船乗りも見咎めるでしょうし、こっそり盗める代物でもありません。
 このような有様でまともな戦闘ができるわけもなく、窮地に立たされた冒険者たちはNPCの船長に「大砲をぶっ放せ!」と怒鳴りつけます。当然、生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、船長は一も二も無く発砲を命じました。
 ここでGMは更にミス。
 まず、GMは「ぶどう弾」の存在を知らなかったため、砲弾が全て導火線つきの炸裂弾であると考え、これが隣接するガレー船の舷側に当たった途端に炸裂するか、さもなくば船体を突き抜けて反対側で炸裂してしまうかといった判定をパーティ代表の幸運度で判定させました。
 結果、海賊側も発砲を開始し、お互い舷側に大穴を空けて沈没の憂き目に遭い、結局パーティは海賊船の僚艦に収容されて(当初の予定とは若干異なるものの)海賊の捕虜となりました。
 が、実際には海賊たちも重大なトラブルを抱えており、もし冒険者たちがここで勝利すれば、海賊たちは捕虜という立場でそのトラブルを打ち明けることになるはずだったので、別に「シナリオの都合上、どうしてもパーティは捕虜になってもらわなければ困る」というわけではなかったのです。
 そもそも「舷側を攀じ登ってくる」ほど帆船と海賊船は甲板の高さが違うわけですから、帆船側の砲手は自殺覚悟で炸裂弾を装填したりせず、素直に眼前の甲板に居並ぶ海賊共めがけてぶどう弾を発射すればよかったのです。
 これは「大砲を近距離で使用するのは非常識だ」という誤った先入観で判断したGMの失態です。クラシカルな大砲は遠距離での撃ち合いより、近接した敵の戦列にぶどう弾や散弾を撒き散らすのが本来の運用法だったのです。当然、洋上の戦いでは敵艦の甲板上を薙ぎ払ったり、帆や索具をズタズタに引き裂くためにぶどう弾が多用されます。

 こうして、このセッションはGMの海洋冒険に関する知識の欠如によって著しくテンポが悪くなり、演出もシナリオ修正の手間でおざなりにされ、非常に残尿感の残るものとなってしまいました。
 もちろん、そのGMは神父です・・・思い出すだに恥ずかしいマスタリングでした(汗)。
 そんな神父も当時と比べればさすがにレベルアップしているつもりですが、それでも知ったかぶりや思い違いが無いとは言えないのが切ない現実です。
 というわけで、今後とも皆様の知識と経験とを共有しつつ、少しでも役に立つネタを提供し続けていきたいと願う1万HITの今日この頃です。
 今後とも、当教会をご愛顧くださいますようお願い致しまする。



7/3

 地域ネタで恐縮だが、神父が住んでいるノボシビリスク市ではTVで映画『パトリオット』が12chで放送されていた。

 主演俳優は映画『ブレイブハート』でも主役ウォレスを演じたメル・ギブソン。映画の内容もまたブレイブハートと同じく、祖国愛と自主独立の精神を歌い上げる叙事詩的ヒーロー・ムービーだ。
 しかしこの二作、作り方というかコンセプトが微妙に異なる。
 イングランド王家による圧制からの独立を願うスコットランド民衆の英雄ウィリアム・ウォレスを主人公とした映画『ブレイブハート』は、(神父の主観ですが)ハイランド、つまりスコットランドの歴史や民族気質を理解していなくても楽しめる映画だと思う。
 しかし、同じくイングランド王家による圧制からの独立を願う植民地時代アメリカの英雄ベンジャミン・マーチンを主人公とした映画『パトリオット』は、おそらくアメリカという国に思い入れが無い観衆にとっては大した魅力となりえないのではないか?

 どちらの作品でも主人公は当初、インテリで、思慮深く、実力もあるが、武力による独立闘争には否定的で、むしろ農民としての平凡な幸せを成就することを願っている。その希望が圧制者の冷酷な所業によって無残に粉砕され、はじめて復讐者として戦いに身を投じるようになる。
 ウォレスも『ゴースト』と異名されたマーチンも一流のゲリラ屋で、比較的安全な戦場を自分の判断で選ぶ自由を得て活躍している。彼らは確かに戦争のプロフェッショナルであり独立闘争の英雄であるが、戦局を直接左右する大規模な会戦に従事し、定められた配置に直立して砲弾と銃弾に立ち向かっていく戦列歩兵の勇敢さとは別の、あくまで個人としての武勇で名を成さしめるタイプだ。
 これだけ共通しているにも関わらず、両者に「観て楽しむために予備知識が必要かそうでないか」という差を生じさせる理由は、おそらく映画の中の「風景」にあるのだろう。
 我々日本人は、ケルト的な自然を目にすると、無防備にもそれを「素晴らしい」と憧れてしまう。だから、高地民族の野蛮さや獰猛さを理解していない全くの歴史音痴でも、イリアン・パイプをBGMにスコットランド的な風景を見せられると、そこで動き回るキャラクター達までも魅力的に感じてしまう。
 一方、『パトリオット』の中の風景は午後の日差しを浴びて棚引く小麦畑であり、夕映えに染まる一面の綿花畑だ。
 これはアメリカ人にとっては「故郷の原風景」であり、絵に描いたような「オールド・アメリカ」そのものだ。しかし、植民地時代から南北戦争に至るまでの奴隷制度との戦いをよその国の歴史として知っている我々日本人にとって、こうした風景は「黒人奴隷やメキシコ系の小作人を酷使して成り立つ忌まわしいプランテーションの象徴」としか映らない。
 もちろん、こうした歴史を全く知らない、というか中学高校で学んだ知識を「役に立たない」といって一笑に付した方々にとっては、そうしたマイナスのイメージすら浮かばない。つまり何の思い入れも抱きようが無いわけだ。

 また、日本人の大多数にとって、自然は守るべきものと考えるだろう。だから、石造りの城に住む貴族たちに立ち向かう森と高地の民族を応援したくなる。
 一方、自然を切り拓いて作り上げた一面の小麦畑は、里山と同居してきた我々日本人からすれば自然への冒涜であり、西洋人の管理農業の象徴だ。故に、それを守る人々に魅力を感じることは無い。
 実際には、合衆国の民衆からすれば「過酷な自然に勝利して国の礎を築き上げた祖先たちの生きた証」であり、プランテーションの風景こそが彼らのフロンティア・スピリッツの原点となる。つまり、見渡す限りの農園こそが彼らのホームタウンであり、『ゴースト』率いる民兵達は自ら志願して、ホームタウンを戦場に家族と自由を守る戦いを繰り広げたのだが・・・

 こうした受け取る側のイメージの差は、要するにその作品世界に住んでみたいか否かという単純な問題に帰結する。
 森や山や湖といった大自然に抱かれての生活は誰もが憧れる光景だが、綿花畑で黒人奴隷に支えられて生活したいと願う現代人は少数派・・・のはずだ。
 無論、大自然の中での生活は実際には困難を極めるし、高地民族の野蛮さは映画の中では語られていない。
 綿花畑を眺めながら安楽椅子に座り、黒人女の小間使いが作るミートパイの匂いを嗅ぎながら子供たちに親戚からの手紙を読んでやる生活は、命を懸けてでも守りたくなるほど素晴らしいものなのだろう。
 それでも、観衆や聴衆というものは、物事の良い面悪い面を殊更にデフォルメして受け取ろうとするから、全く同じモチーフを全く同じ俳優が演じているにも関わらず、ただ背景が大自然か大農場かというだけの差で楽しみ方まで変わってくる。

 これ以上書くとコラムになってしまうので、とにかく締めくくるが
「情景描写次第で、キャラクターに対する感情移入は全く変化する」
 という事を、GMを志すゲーマー諸兄は意識して欲しい。
 TRPGはキャラクター・ゲームであるが、そのキャラクターの心理描写を引き出すにはまず世界の風景を明確にすることなのだ。
 神父自身、GMをやる際にはよくよく念頭におかねばならないと思っている事なので、映画を引き合いとして日記に記しておこう。



6/27

 さだまさしを聴いたせいか、疎開する夢を見た。

 「疎開」という言葉を知らない人は結構多いらしく、神父の知り合いにも、中学校の社会科の授業で習ったはずなのに「ソカイ」と聞いて何のことかさっぱり分からない、という者が多い。さすがに雑学が命のTRPGゲーマーは良くこれを理解しているが、普通の若者は知らないのが普通らしい。
 念のために説明すると、ここで言う「疎開」とは以下の通りである。

 太平洋戦争の後期、日本の敗色が濃厚になってくると、「米英の飛行機が飛んできて町に爆弾を落とすのでは」という不安が広がり始める。
 ただでさえ長引く戦争で食料や物資も不足し、どの家族でも幼い我が子に十分な食事を与えることもままならない。
 そこで政府は、「工場で働けるほど成長していない子供たちを、安全で食料の自給自足も容易な農村部へ避難させよう」という方針を打ち立てた。これが『疎開』である。
 今で言う小学生くらいの子供たちは親元を離れ、地区単位、学校単位で農村部の分校や寺などに寄宿生活を行うこととなった。
 生産力で連合軍に圧倒的に劣る日本は当時「ぼくもわたしも国のため」で、中学生は男子女子を問わず軍需工場で兵隊さんの軍服を縫い、水筒や戦闘機のボルト製造に従事した頃である。疎開した子供たちもまた「働かざるもの喰うべからず」とばかり、明日の自分と今日の兵隊さんのために畑を耕し稲を育てた。
 子供が農作業を手伝うなど、近代国家の夜明けを迎える以前では当たり前の事で、義務教育制度が機能していた当時ですら農村では当然の光景だ。しかし、それも「親元を離れ、見知らぬ土地で」となれば話は違う。
 地元の逞しく育った子供たちは、都会育ちで親恋しい子供たちを「疎開もん」「もやしっ子」と馬鹿にして何かと嫌がらせをしてくる。その容赦の無さといったら、今日のイジメどころではない。便器を舐めさせられるどころか、肥溜めに一晩中叩き込まれて凍死寸前になる事さえ「あちこちで聞ける話」なのだ。
 まして、彼らの側には泣きつける親はいないし、引率の先生や教育任務の中尉殿に知られれば、苛められた側が「仕返しもせずに情けない、それでも日本男児か!」と罰掃除をさせられるご時世である。

 そんな子供たちはさすがに軍部の愛国教育も効き目が無いのか、「戦争のせいで自分たちは親にも会えず、地元の悪ガキに苛められる」という事実に気付いたりする。そのため、疎開先の村長さんが善意で見せてくれるニュース映画の中で命懸けで戦っている「兵隊さん」を見ても、盛り上がるのは地元の子供たちと順応逞しい一部の「もやしっ子」だけである。
 そして、戦争が終わって帰ってきてみれば、生まれ育った故郷は自分の家の場所すら分からない焼け野原、である。
 戦後、共産主義の台頭を許した「戦争被害者の世代」の根底にあるものは、この疎開のトラウマが大きく関与しているのではないだろうか?


 実際、疎開も空襲も経験し、盲腸で破裂しかけた自分の腹と病身の祖父を抱えて東京から祖父の実家のある北海道まで汽車と連絡線を乗り継いだという我が父の思い出話は、栄光に満ちた成功とドラマチックな悲劇を繰り返すファンタジー小説の主人公のそれよりも勇気と波乱に満ちた冒険に聞こえた。
 疎開先での苛め、教育官中尉との剣道勝負、栄養失調と病気で倒れる父と突然の虫垂炎、東京大空襲のさなかの帰宅、何日もくすぶり続ける炎を避けての親戚巡り、ナイフをちらつかせた朝鮮移民の少年たちとの決闘・・・そんなビルボも真っ青な冒険を無数の子供たちが経験した「戦争」の時代。
 ひょっとして、神父がかつてルナル・サーガで作成した100cpのキャラクターでさえ、現実に存在する父の総計CPには(戦闘能力は別として)及びもつかないのではないか、と本気で考えた今日だった。
 ・・・まあ、話半分なんだろーけど。



6/22

 うわ・・・二ヶ月ぶりの日記(大汗)。
 最近、ネタになることが少なくて・・・というより、いつも通りのネタが漫然と繰り返される日常です。
 ここは一つ、自虐系ネタでお茶を(以下自粛)。

 それでも今日は新しいキャラクターでセッションを開始した。
 気分屋ARK氏によるオリジナル・サプリメント『Darkhunter from Darkness』・・・もちろんGURPSです(笑)。
 こちらのサプリメントは現在公表の予定が無いので、文字通り内輪ネタになってしまうので恐縮ですが、端的に表現すれば『某BEAST BIND』の世界観を更に切実にしたような感じでしょうか。
 GMである気分屋ARK氏は現代世界を背景に、密かな勢力争いを開始した魔族たちとそれに巻き込まれた半人半魔のハンター達による『無題』キャンペーンをほんのり望んでいたようですが、プレイヤーの多数決により、『無題』の世界観がバッドエンドを迎えて核戦争の末、核の冬を迎えて1世代分の月日が流れたという設定の『エクリプス』でプレイされることが決定。
 おそらく、GMはちょっぴり残念だったのではないかと・・・これは神父の憶測ですが。
 で、参加PCは以下の通り。

・PC1=暗殺、もしくはそれに類した目的のために製造された、人間そっくりの自動人形の少女。
     主人を失って久しく、メンテナンス不良から様様な機能不全に加え、殺戮を忌避する第二の人格が発生。
     精神分裂と故障、そして殺戮の中で命を救った幼女を抱えたまま、存在意義である殺戮の矛先を捜し求めて放浪中。
     その用途ゆえか、未成熟の幼さの中に完璧な造形美を宿している。

・PC2=長い歴史の中で迫害と弾圧を受け続け、遂に滅亡の時を向かえた魔術師一族の末裔。
     人知を超えた召喚魔術の力を頼りに、一族滅亡の引き金を引いた仇敵を追い求めている。
     胸の奥底に燃える昏い炎を秘めつつ、魔術師ならではの合理主義を貫く銀髪の美青年。

・PC3=遥かな昔、神の恩寵を得るまでに至った北方の戦士。
     戦乙女の轍(オーロラ)を追い続け、神の授け賜うた聖獣(白熊)の毛皮と魔力を勝ち取った獣頭の狂戦士。
     大神オーディンの館へと招かれるはずだった彼は、しかし魔神ロキによって死の宿命を閉ざされ永遠の旅人となる。
     白い毛皮に熊の頭、大斧と円形盾を携えた巨躯で終焉の世界を放浪する。

・PC4=神の怒りか悪魔の祝福か、老いることを止めさせられた壮年の元殺し屋。
     その理由すら知らされぬまま、行く先々に現れる魔族の群れと戦い続けて二十余年。未だ彼は老いることも無い。
     幾つもの村や町、幾千の人々を巻き込んだ戦いの末、人類の希望である「教会」さえも敵に回して生き続ける。
     旧時代の拳銃と、小人の鍛えし魔剣を携えた赤毛の疫病神。

 という内訳ですが・・・うーん、この手のモチーフはやはりPCの感性がバラバラになって怖いですねぇ・・・GMも大変だ(汗)。

 このGM、吸血鬼と狼男にロマンを感じるヴィジュアル嗜好のゲーマーを自負しているだけあって、件のサプリメントの元ネタである創作小説をワーウルフの「ダークハンター」を主人公として執筆、某コミケットで出展した経歴があるらしい。という事は、必然的にシナリオもその方面に傾くだろうと考えて神父も今回ばかりはビジュアルを重視・・・したつもりだったが、まだまだ泥臭さが目立ちました(涙)。
 実際のプレイでも、シニカルなキャラを演じなれていない神父のロールプレイは自分でもわかるぎこちなさで、GMの提示する「惹き」になかなかスムーズに喰い付けない。まだまだ修練が必要・・・
 シニカルなキャラをプレイする際には「プレイヤー本人が、消極的で腰の重いPCを騙してシナリオに巻き込ませる」というテクニックが必要となるわけだが、今更ながらその困難さ、というか不自然さが理解できた。

 似たタイプのキャラで過去に一度失敗している神父としては、何とか乗りこなして見せねばなるまい。



4/19早朝

「みのもんたは金輪際、政治を語るな」

 と唾棄したくなった朝です。

 朝のワイドショー(番組名は新聞欄で調べてください)で持ち上がった、グレート・サスケ氏の覆面問題に触れて

「政治にはふざけていい場所とそうでない場所がある」

 などと、したり顔でコメント。
 じゃあ何か?

「彼に投票した岩手県民有権者もみんな遊びやおふざけで投票した」
 とそう主張していると考えていいんだなみのもんた?


 かと思えば今度は、ムッラー(イスラム教指導者)の「盗みを働くことはアッラーの教えに反する」という発言によってバグダッド市民が略奪品をモスクに返却した、というニュースに触れて

「アッラーが怒るから返すってのも短絡的ですけどねぇ」


 どうやら命が惜しくないらしいな、みのもんた?


 その発言を、信仰心と正義感によって目を覚まし、自分の行為を恥じて罪を改めようとしたバグダッド市民たちが聞いたらどう思うか、考えてモノを言ってるのかみのもんたよ?
 アンタ数分前に言ったよな。「政治に関しては、ふざけていい場合とそうでない場合がある」とか何とか?

 その言葉、そっくりそのまま返してくれるわこの国辱め!

 マスメディアの立場だからって、言っていい事と悪いことがあるのを少しは理解してくれ・・・みのもんたに限らず(血涙)。



 

4/15

 久々に、というか物心付いてから数えて5本の指(2進法で数えないように)に入るレアリティで「タイマー録画したくなったアニメ」を発見。

 LAST EXILE

 だそーです。接頭詩を抜いたら某エロゲーですね・・・いやいや。
「何でもできてやる気が無くて得体の知れない人望のある似非ハーロック」だの「成り上がりたい癖に権威や伝統を頭から否定する百姓根性剥き出しの兵卒にーちゃん」だの、登場人物のクサさで5mほど退きましたが、世界観の方が
「スチームパンクな技術」「航空冒険」「古くさい文明Lv」
 と神父のツボを突きまくりなので、神父的ブレイク決定しました(笑)。というか、主人公はガキ2人組ですが、空想冒険活劇の主人公は乳臭いガキでもいいんです。


 さて、件の作品の中で
「騎士道なんかクソっくらえだ!!」
 という発言がでましたので、今日は騎士道の話。

 騎士道とは、「戦争行為が騎士(=戦士階級)の特権であった社会において、彼らが自分達自身に求めたモラル」に他なりません。
 彼らはいわば他人を殺害することを生業として、その行為によって特権と尊敬とを得ていたわけですから、自発的に「それに相応しい人間」になる必要性があったのです。
 他人の命を奪うことで尊敬される・・・この無茶苦茶な要求を果たすために、騎士達は自らを聖人君子に近づけるべく様々な不文律と暗黙の了解で自分達を縛ることにしました。
 日常においては
「目下の者からの援助要請は決して断らない」
「主君と教会を敬い、女性の為に尽くす」
「万事に率先し、世の模範として生きる」

これが戦いになれば
「降伏した敵からは正当な代価を得て、それ以上は危害を加えない」
「主君を失い戦意喪失した兵卒達には手を出さない」
恥ずかしい勝ち方や、人に言えない負け方をしない

 となる。

 一日サボれば作物がダメになるため学識を得る余裕のない呑百姓に戦争を任せたら、どんな結果が生じるだろう?
 やる気を無くして逃げ散るならまだ良い方で、万一にも勝利してしまえば無抵抗の捕虜までリンチしはじめる。
 勝利と血の饗宴で勢いづいた農民兵の群は相手の集落になだれ込み、家畜や金財を略奪し、女を犯し、作物を焼き払って意気揚々と故郷へ戻ることだろう。
 そんなことはない、農民は一方的な被害者だ、と主張する方もおられるだろう。だが歴史はその逆を証明している
 アーサー王の伝説で知られるアングロ・サクソンとケルトによる7王国の時代、統一王エグベルトがブリテンの島に秩序をもたらすまで、農民達はそれぞれの集落に戦士階級を擁し、互いに部族の利益(例えば水や狩猟場、労働力である奴隷や女)を求めて殺し合うのが日常茶飯事だった。騎士道を持たない蛮族にとって、戦争は単純に略奪のための手段でしかなかったのだ。
 フランス百年戦争においては、輝かしい騎士道を心得ずに特権ばかりを振りかざす騎士達が無法を働いたため、社会的に下の立場にある農民達もまたそれに倣った。騎士道を知らない傭兵達は戦場で略奪と殺戮を振りまき、その犠牲となった農民達は死人の鎧を剥いで新たな傭兵となり、かつての自分達と同じ農民を犯し、殺した。
 ドイツ30年戦争においては、やはり騎士道を知らぬ傭兵達がドイツ諸侯の元で数十の町と数百の村を滅ぼし、主の御名を唱える騎士の目の前で無辜の民衆を殺し、彼の妻を娘を犯し尽くした。それに対しスウェーデンは、主の教えと騎士道をグスタフ・アドルフ王自らが率先したおかげで、無学であるはずの平民達で編成されたスウェーデン国民軍は一兵卒に至るまで騎士道の誇りを抱き、略奪も暴行もほとんど行われなかったという。(グスタフ・アドルフ王の死後、カリスマ的指導者を失った新教連合は再びモラルの欠如した餓狼の群れと化したそうですが・・・)
 平民が戦士階級よりも大人しいのは、戦士階級に抑圧されて力のバランスが取れている状態と、平民全てに教育と理念が行き渡った社会だけである、というのは歴史の事実である。

 つまるところ、騎士道とは不文律の戦争規定であり、無知による野蛮が横行する中世暗黒時代において欠くべからざるモラルであり、社会をリードする戦士階級をして戦争被害を最小限に抑えるための暗黙の了解だったのだ
 件のアニメを観た方には分かるかも知れないが、無学な呑百姓の銃兵が唾棄し、主人公の片割れが「クソっくらえだ」と罵倒した騎士道がもし最初から無かったとすれば、彼らは降伏して捕虜となる権利すら与えられないことだろう。
 騙し討ちが常套手段となり、宣戦布告も行われない戦争では、そうでない戦争に比べて兵卒の死亡率は圧倒的に高い。負ければ国土は蹂躙され、女は犯され子供は奴隷にされるのだ。勝つために手段を選ばない敵が、戦後復興において紳士的に尽くしてくれるなどと誰が想像できよう?
 現代社会の、それも最も国民生活が豊かで学識の普及した日本に生まれた我々の理屈では考えられない蛮行が、今も第三世界では当然のモラルとしてまかり通っているのだ。況やジュネーブ協定が締結される以前の、つまり第一次世界大戦以前の社会ではいかばかりであったろうか。
 宣戦布告の使者も立てず、名乗りを上げる敵の騎士を弓で射殺し、負傷者収容に充てるはずの夕刻や早朝のミサの時刻に奇襲攻撃を仕掛けた方が味方の損失も少ないとか何とか考える、某田中芳樹フリークの知ったか振りは大いに反省して欲しい。
 自分が行った非道は敵も行うのだ。戦争規定を無視した奇襲攻撃が失敗して降伏しても、敵が受け入れてくれるとは限らない。そもそも奇策とは常套手段ではなく最後の手段として用いられるべきなのだ。
 勝てば官軍と卑怯者は口にするが、常に勝てるとは限らない。戦争の仁義は勝つために存在するのではなく、負けたときのために存在する保険なのだ、と考えてもらいたい。

 たまたまアニメの今回は、主人公の側に敵対する相手が「騎士道を知らぬ相手」であり、戦争規定を無視した奇襲を受けた艦隊は大損害を被るに至った。
 それに対して主人公が決死の覚悟で合流した艦隊の司令官は騎士道精神の持ち主であり、「恥ずかしい勝ち方をしようとする敵に恥ずかしい負け方をすべきではない」という騎士道の基本中の基本から、玉砕覚悟の徹底抗戦を選択した。
 この司令官の判断と「みんなも同じ気持ちだろう」という先入観に凝り固まった副官の演説に怒り狂った呑百姓の銃兵が、クールに主人公達を助けて上官に銃を向けることになったのだが、ここで彼を格好いいと思った方は反省してもらいたい。
 彼は単純に自分が助かりたいから騎士道を否定しただけであり、判断基準は我が身かわいさ100%である。戦友の命を助けたいわけでもないし、戦いに勝利するためのベターな選択肢を有しているわけでもない。ただ単純に自分が助かりたいだけであり、そうした自分の命を犠牲に強いる騎士道と、それを振りかざす上官が気にくわなくて戦友に銃を向けたのだ。
 断言する。

 奴は両生動物のクソを掻き集めた値打ちしかない。

 平民出身の、なんの特殊能力もない、ありふれた才能の兵卒、という設定は神父のファンタジィのひとつであり、神父を知る人々にとっては上の発言を意外に思うかもしれないが、断言します。ケツを掘るだけ掘って相手のマスかきを手伝う社交儀礼もないオカマ野郎は神父の趣味ではありません。
 ・・・やたら下品な表現が頻発して恐縮だが、それくらいあの手合いは嫌いなのである。


 無力な部下がプライドの高い上司の騎士道精神に付き合わされて無駄死にする、というシチュエーションがよく登場するが、これは大きな思い違いである。
 徴兵されたにせよ志願したにせよ、兵士は守るべき国民の代わりに暴力を遂行する立場の人間である。
 こうした立場の人間は、モラルを捨てて生きるよりはモラルに殉じて死ぬ事を念頭に置かねばならない。その程度の覚悟がなければ合法的に武器を所持することなど許されない。
 兵士個人が持つ銃や刀剣は彼らの命を守るためではなく、全体意識としての暴力を遂行するために携帯を許可されているのだ。
 だが現実問題として兵士個人全てが必ずしもその覚悟が持てない――つまり戦う意義を理解するだけの誇りと学識に欠如している以上は、彼らが泣いて喚いて嫌だと訴えようが毅然として手綱を握りしめ、彼らを騎士道という機械仕掛けの歯車として機能させるリーダーが必要なのである。
 リーダーが騎士道を心得ているからこそ、無学な呑百姓共をいっぱしの兵士として振る舞わせることができるのであり、もし彼らのリーダーがモラルに基づく戦争規定より実利損得を優先させるような人物であったなら、その下にいる兵士達は上官の目の届かない場所で略奪暴行を繰り返す野蛮な群衆と化すだろう。
 騎士道を知る司令官は都市上空に停泊する艦隊を攻撃したりはしないが、騎士道を知らない司令官は劣勢を補うために都市上空に艦隊を布陣させるだろう。
 そうした判断ができない呑百姓の兵卒は、上官が「騎士道に殉じて死ね」と言えば涙を呑んで死ぬのが全体のためなのである。
 無論、本人にとっては冗談ではないといったところだろうが、戦争とはそういうものなのである。

「畜生、騎士道なんかに付き合わされて死んでたまるか!」
 と叫んで上官に銃を突きつけるのと、同じ事を叫びながら負傷した戦友を背負って医務室に連れて行くのと、どちらが兵士として正しい行為か諸兄にも考えてみて欲しい。


 最近、コラムにすべき内容をこっちでばかり書いてるなあ・・・



3/26

 はじめて、アニメ『ヒートガイ ジェイ』を観た・・・と思ったら最終回だった。
 感想

「気にくわねえぜ、てめえら」

 ご都合主義と安っぽい反骨主義で漢を語られてもねえ・・・
 偶然に偶然が重ならなきゃ、「キレて暴れた末に犬死に」じゃん(涙)。
 確かに、傍目にどんな下らない事でも、それが本人にとっては命を懸ける価値のあるプライドとなる・・・という事もある。負けると分かっていても意地を通してしまいたくなる時もある。
 が、その結果がご都合主義によるハッピーエンドとなると・・・ねえ?

主人公とその一派だから

 という理由で登場人物達を甘やかすと、せっかく彼らが命がけで貫いたプライドが安っぽくなる。リスクとデメリットを背負ってこそ漢のプライドは輝くという事を、件の作品の脚本家は松本零士御大から学ぶべきだ。

 ファンの方々には申し訳ないが、最終回を見た限りでは神父の感想は以上の通りです。


3/23

 先週に引き続き、黄鶴氏のオリジナル・サプリメント『GURPS妖撃隊』をプレイ。
 いや〜、久々にPCがにましたわ(涙)。
 戦闘メインのキャラがキャンペーンの戦闘の3ターン目に雑魚に殺されて死ぬ、という非常に情けない結果に終わったのは切なさMAXだが、何の特殊能力も無い極右の元自衛官(笑)が素手で妖怪データの怪物の群に飛び込んだのだから、当然の結果である。
 「香取神道流四段(<刀>19Lv)の腕前を持つ元自衛官の右翼」が刀も拳銃も持たずに妖怪の群に飛び込んだのは、「一刻も早く同胞の生命を妖魔の手から守りたい」という愛国心ゆえの事なので、あまり突っ込まないでもらいたい。
 いずれにせよ「祖国同胞を妖魔の群から守るために無茶をして死んだ」のだから、キャラとしては本望なのである(男泣き)。


 かつて、TRPGは純粋な意味で「ゲーム」であり、楽しむべきコンセプトは「ゲーム(/ダンジョン)マスターとプレイヤーの知恵の比べ合い」だったので、PCはシミュレーションゲームの駒のように死んで死んで死にまくった。威風を凝らしたダンジョンと、スリリングな敵との戦闘、そうした様々な「障害」に立ち向かって「勝利」する事が面白かった時代だったので、キャラクターの性格や信条などを考慮して行動するゲーマーは希少、というよりアニオタの変人だった。
 しかし、今ではロールプレイこそがTRPGの楽しむべきコンセプトであり、システムやルールや世界観は「キャラクターが活き活きとロールプレイするための小道具」に徹していると言える。
 こうしたプレイスタイルの推移は神父にとっても非常に好ましい。元より神父は「アニオタの変人」の一人だったのだ……アニメを元ネタに自作自演に興じる、という汚らわしい冒涜行為を唾棄してはいたが、当時の世情からすれば「その一派」として捉えられてもおかしくない、徹底したロールプレイ推進派だったのは間違いないだろう。
 であるから、昨今のロールプレイ中心の業界方針は神父も大いに支持するところである。支持はする……のだが、「ルールあるゲーム」としてのシビアな側面を、「ロールプレイ優先だから」という理由で等閑にして欲しくはない。その点において、神父は昨今流行りのTRPGシステムに不満を感じているのだ。


 たとえば『天羅万象』や『ドラゴンアームズ』のように
「プレイヤーが死亡を宣言しない限り、PCは基本的には死亡しなくても良い。逆にプレイヤーが「ここは散り際だ」と感じたらPCは死を選ぶことによって特殊な行動をとることができる」
 など開き直っているゲームは、一見ロールプレイ玄人が好みそうな演出重視の工夫が凝らしているように見えて、実際には「ルールという厳密対等な尺度によって、何者に優遇されることもなく自分の努力と熱意とロールプレイによってPCを勝利と栄光に導く」というカタルシスを奪い去っている。
 死ぬ危険性があるからこそ、命を懸けた戦いは見栄えがするのだ。
 実際に命を懸けるからこそ、その試みは崇高であったと褒め称えられるのだ。

「あ〜あ、ここで失敗するなんて格好悪いなあ。仕方ないんで僕のキャラは力尽きて意識を失ったことにしますね」

 こんな台詞を吐かれては、たとえ相手が海神ポセイドンの送った無敵の化け鯨で、助けに来てくれたのが凛々しく天馬に跨ったペルセウスだったとしても、アンドロメダ姫は彼の勇敢な行為に対して横っ面をひっぱたく以外に取るべき礼を知らないだろう。

 成功を前提とした冒険。
 勝利を約束された闘争。

 ソレはもはや子供のヒーローごっこと何ら変わるところがない。彼得意のアレが空手チョップに変わっても、結局ライダーが勝つのは揺るぎない予定調和なのだ。
 八百長ゴルフで勝たせてもらって喜んでいる年中正月頭の企業重役じゃあるまいし、ストーリーの都合とGMのお情けで生存と勝利を約束されても空しいだけだ。
 「死を拒み続ける」ことが難しいからこそ、生死を取り扱った戦いのロマンは美しくも切ないのではないか。生きる努力と死ぬ工夫をセットに纏めて安売りされても、殺戮と闘争に身を投じているPCが安っぽくなるだけだ。
 仮想世界である以上、死にたきゃいつでも割腹して果てられるのだ。

 死にたくないのに死んでしまうかも知れないからこそ、今日の戦いで死ななかったこと生き延びたことが喜びとなり誇りとなるのではないか?

 ソレをなんだねチミ?

 やれ犬死にだ、やれ死んじゃ何もならない

 命を惜しむ程度の価値しかないプライドを端金で売り渡し、何喰わぬ顔で他人と刃を交わす君達の方がよっぽど頭ん中お正月だよ、このノータリンのウィークリー冒険者と雑役夫症候群どもめ!!

(※心当たりのある方のみ、大いに憤慨してください)


 ……まあ、自分の愛すべきPCが死んでしまったことを、ロールプレイ推進派である神父が喜ぶというのも妙な話ではあるが、神父はロールプレイとプレイヤーのエゴとははっきりケジメを付けることで、何に遠慮するでもなく思う存分ロールプレイをエンジョイできているので問題ない。
 むしろ、
「PCが命がけで守ろうとした祖国同胞の生命は、やはりPCの命を生贄に捧げねばならないほどの脅威に蝕まれていた。
 そして、PCは自らの身命を擲っても果たせぬほどの困難に、己の生命を掛けて立ち向かう事ができた」

 と大いに満足している。
 命を懸ける必要のない事件に付き合うほど、PCは暇ではないのである。


 でも、次のキャラはどうするかなあ……


3/19

 花粉が壮烈でまともに仕事ができません(涙)。
 放置すると鼻水が原因で喉や消化器系に感染症が発生するし・・・林業育成や環境保全のために杉ばかりを植えた国に公害訴訟を起こしたい気分で一杯っす。
 つーか花粉アレルギーに関する医療コストを農林水産省の予算から分担してくれ小泉政権(血涙)。
(注:神父は小泉政権を支持しています)
 でも訴訟に万一勝利すると、防風林として無理矢理植えられた杉まで伐採される危険性があるので泣き寝入り・・・


3/16

 黄鶴氏GMでオリジナル・サプリメント『GURPS妖撃隊』(ふる〜いDOSゲーがオリジナルです)をプレイ。
 感想も反省点も諸々あったはずだが、帰りにGMのおごりで行った長崎ちゃんぽん○ンガーハットで呑んだお冷やの中に未確認生命体の脚部を発見してしまい、プレイ後の余韻その他諸々が三千世界の彼方へ吹っ飛んでしまいました(血涙)。
 安く(380円)て美味い店だったのに・・・


3/15

 先月親戚からもらった育毛剤のお礼にダイエット・サプリをくれてやったらひっぱたかれました(男泣)。


3/9

 朝食を食いながらテレビをつけると、某局番で『某GA』が放送していた。コズミックでSFな美少女アニメのアレであるが、件の作品を目にしたのは初めてだ。
 で、抱いた感想といえば

 予想通りでした。

 いや、美少女ジャンルを否定するわけではない。というかビバ美少女。
 だがしかし、意識を持った昆布に暴君として振る舞われたり、お土産の干物を食う喰わないで騒いだ末に町中を無反動砲で火の海にしたりというのは、さすがについていけない。
 というか

 この作品からギャルを取り除いたら、絶対に成立しないな

 と、しみじみビジュアルの威力を思い知った。
 まあ・・・今回初めて神父が見たその回だけが絶望的なまでにヘタレで、普段はもっとまともで笑えるストーリー満載なのかも知れないので「結論」としてはノーコメント。
 願わくば、ファンタジーやSFの世界で(ギャグとして)干物を(一生かかっても食い尽くせないほど)お土産に買ってきたり、干物嫌いのPCと押しつけあった挙げ句に(その場のノリで)攻撃呪文や対戦車ランチャーを(町中で)ぶっ放したりするような状況が、TRPGのセッションで発生することの無いよう祈る限りです。


2/10

 久しぶりに、「続きが見たかった夢」を見た。

 父の経営していた店がまだ新橋(東京)にあった頃、小学生だった神父は店の障子を貼り替える父の手伝いをするために地下鉄に乗って新橋へと向かった。
 都営浅草線を降りて、古くさい「ハイカラ」の名残が漂う地下街を抜ける。
 地下街の途中、神父の誕生日やクリスマスになると父が出入りするプラモデル屋があったが、プラモデル屋の分際で昼間は閉まっていた。当時の新橋は、全くのところ高級歓楽街でしかなかったから、昭和通りから一歩外れてしまえば、どの店も夕方までシャッターを下ろしていたものだ。
 そのプラモデル屋も同様で、銀座に飲みに行くような中高年しか立ち寄らないため、ガンダムやザブングルなど置いていなかった。
 空襲と疎開を経験したことのある父がよく買ってきたのは、日本の軍艦や戦闘機だった。

 夢の中の話であるから、小学生なのに神父は大人びた感慨を抱いてそこを通り過ぎた。
 当時の神父は零戦が大好きだったが、父は訓練用の複葉機「赤とんぼ」が好きだったのが懐かしかった。
 というと既に死んだ人の話のようでアレだが、父はまだ健在である(汗)。

 国鉄(今のJR)側の改札から出れば、大通りに面していてバス停もあり安全なのだが、神父はいつも地下鉄口から地上に出る。
 飲食店向けのビルに囲まれた路地にぽっかりと口を開けているその出入り口は、曲がり角によって表通りからは全く見えず、周囲のビルには窓の変りに換気扇ばかりがくるくると回っている静かな場所だ。
 これは夢の中だからというわけではなく、事実そこは不思議な雰囲気の場所だった。
 町の夜が未練がましくうずくまっているような、日の差さないその地下鉄口の外に、白い服を着た老人が座っていた。
 工場の作業員のような小さな帽子を被っているが、薄汚れた白い着物の下は洋袴に脚絆、首からは円筒形の容器――骨壺を白い布で吊り下げ、片腕の袖がだらりと垂れ下がっていた。
 昔、神父が見たことのある復員兵だった。

 今の子供達は戦争の生き証人を目の当たりにすることは少ないだろう。
 学校の修学旅行で広島に行けば、被爆者の祈りにも似た切々たる思いを拝聴することができるが、では前線で戦った側の「戦争被害者」は大半の方々が見たことすら無いと思う。よしんば肉親にそうした方がいても、その方はきっとご家庭では戦争の傷跡を家族に見せたりはなさらないだろう。
 復員兵とは、終戦によって本土の外から帰ってきた兵隊さん達のことを指すのだが、そうした方々の中には故郷へ帰っても家族は空襲で亡くなり、自身も腕や足を失っているせいで働くこともままならない方も存在する。
 終戦直後の日本は国中が焼け野原だったから、こうした傷負いの英雄に対する風当たりは強かった。
 戦後復興を遂げたあとも、敗戦の記憶を蒸し返すのはイヤだとばかり、彼らに対する保証はほとんど行われなかった。酷いものになると、自分が片腕片足を犠牲にして守り抜いた家族縁者から見捨てられ、頼る人もないまま路頭に迷うケースすらある。
 こうして死に装束を身に纏い、供養のあてもない戦友の遺骨と共に路頭に迷うかつての英雄達の事もまた「復員兵」という呼び方で区別するようになった。
 神父が子供だった頃は、銀座だけでなく渋谷駅前や横浜の山下公園などにも、白木の箱を抱えてハーモニカを吹く復員兵の姿が見られた。
 忘れてしまいたい、目をそらしてしまいたい日本史の汚点。蓋をされた臭いもの。
 そんな扱いを受けた殉国者たちの魂が「俺はここにいるぞ」と泣きながら訴えているようなハーモニカの音色が、いつもどこかしらで響いていたのだ。
 幸せな時代に生まれた同胞がビキニ姿で肌を焼くグァムやサイパンの浜辺から、その名すら忘れ去られたルソンのジャングルの片隅から、「俺達はまだここにいるぞ」と泣きながら訴える兵士達の魂の慟哭が、手足を代償に生きて故郷へと辿り着いた一握りの戦友達が吹くハーモニカの音色に乗って、遠く銀座の街角にまで届いてくるような音色だったのだ。
 今日の夢の中でも、その年老いた復員兵はハーモニカを吹いていた。

 目が覚めて、神父はこの手の夢を見ると必ず抱く痛恨の想いですこぶるブルーだった。
 現実の少年時代に神父が見た復員兵は、当時の神父にとって得体の知れない存在だった。
 彼が戦争帰りであることはおろか、彼と戦争が結びつくことすら思い至らず、かといってルンペンや乞食の類とも思えなかった。世間は彼らを物乞いの一種と捉えていたが、彼らの几帳面な死に装束の着こなしや、まっすぐ前を見据えて背筋を伸ばした姿勢など、小学生の目にも彼らは物乞いとは明確に違う存在だった。
 だが、やはり得体が知れない存在だった。
 だから、彼らに声をかけることはなかったし、彼らにモノを恵むのがとても場違いなような気がして、結局神父は彼らに100円すら捧げようとはしなかった。
 夢から覚めて、それが残念で仕方がない。
 せめて夢の中でくらい、彼らに感謝の気持ちを伝え、労りの言葉をかけ、彼らがまだ日本人として世間に認められていた頃の話を聞いてみたかった。

 歌詞の内容を知る今なら、あのハーモニカの音色の意味も分かるのにと思うと、夢が途中で覚めてしまったことが堪らなく残念だ。



2/9

 神在月カミュ氏のGMで『天羅万象 零』の第二回目セッション。
 一回目は時間の都合上、零幕(つまり各PCごとのプロローグ)しかプレイできなかったため、今回からが本幕のスタートだ。
 PCの内訳は以下の通り。

・文官肌の弟に国を簒奪され、名代(いくつもの大名家を束ねる偉い人)である父をも殺害された武人肌の若殿。
・簒奪劇によって若殿の影武者となっていた自分の実弟を殺され、文官トップであった父の二心を目の当たりにした若き陰陽師。
・一連の争乱で落ち武者となり、ひょんな事から奇妙なヨロイ(天羅版モビルスーツ)を得るに至った野武士の青年。

 ・・・どれが神父か一目瞭然ですね(涙)。

 若殿と陰陽師は竹馬の友という関係で、2人の間には少年時代に保護した記憶喪失の少女が存在する。この少女は設定段階では陰陽師が萌えている相手であり、若殿にとっては大切な妹という役割だった。
 ところが、実際のプレイで若殿の方が少女を拾った際に一目惚れしてしまう(「裁定者ルール」を用いて操作したのは神父です、ごめんなさい(笑))ことになり、逆に親友である陰陽師は両者を見守る立場に……
 やがて少女は目映いばかりの美貌の人へと成長し、素性明らかならざる身分にも関わらず、国内の譜代重臣や他国の良家から縁組みの申し出が相次いだ。が、少女に密かな思いを寄せる若殿はその悉くをご破算にし、すっかりやさぐれて放蕩三昧の日々を送るようになった陰陽師もこれに一役買った。
 その結果、
「元より武門にばかり重きを置き、文官の苦労を知らぬ豪傑肌であった上に、長じては出来の悪い悪友と一層のよしみを通じ、あまつさえ氏素性の知れぬ女の尻を追い回し、果ては譜代重臣の婚儀の願いすら握り潰す大うつけの兄」
 に対する
「支える側の苦労を知る次男坊であり、国の礎となる文官を思い遣り、自らも刀を擲って筆を執るに至った、常識的かつ保守的な見識を持つ努力家の弟」
 という対立構図が組み上がってしまった。
 無論、若殿も武人としての風格は早くから磨かれており、乱にあれば知略も良く重んじる好人物であるのだが、いかんせんプロローグである零幕では、そうした危機管理能力として発揮される魅力は演出の機会がない。
 結局――実際には弟に下克上を唆した存在やら、件の少女の特殊な事情やらが根本に存在するのだが――傍目に見ると簒奪劇は色香に迷ったPCの自業自得であり、PCは復権と復讐に至る正当な大義を振りかざせない、という状況になってしまった。
 が、「正当な復讐の理由があるからこそ、血気に逸りがちなほど目的達成に一途なキャラクター」を演じる予定であったらしい若殿のプレイヤーにとって、この状況が面白いわけはない。まして、このとき若殿のプレイヤーは、簒奪劇の裏に見え隠れする陰謀の伏線を見落としていたのか、「自分の身に降りかかった風評が、仇敵の情報工作の結果である」という可能性をまったく失念していた様子だった。
 そのためプレイ途中、すっかりロールプレイが主観的になってしまい、また我々周囲があまりの状況に笑い転げたことが自尊心を傷付けたこともあるのだろう、陰陽師が「ロールプレイ」として発した揶揄に対して素で激高するという風景が見られた。
 どうやら若殿のプレイヤーは「バカ殿としての風評」を我々が面白がるあまり、それが既に「キャラクターにとっての事実として決定されてしまった」と誤解して、自分の演じるキャラクターが他人に決めつけられる憤りを発露したものと思われる。
 ロールプレイのケジメ/主観と客観の使い分けがなっていないと言えばそれまでだが、面と向かって笑い種にされれば誰でも怒る。まして天羅は「本気でロールプレイする事」を推奨するゲームだ。感情移入度も並ではあるまい。
 この場を借りて、行き過ぎた「プレイヤー側の揶揄」を謝罪いたします。

 幸い、若殿も気を取り直して建設的な行動に出ることにしたようなのだが、ここでもう一つの壁が彼を待ち受けていた。
「プレイヤーが世界観としての知識に乏しく、策謀を練ろうにも予備知識がないので方針の立てようがない。一方、ゲームマスターに策謀や軍学に対する知識が欠乏しており、プレイヤーの質問の意図が理解できない」
 という多重のジレンマが発生したのだ。
(PCが策略を弄すること自体に疑問を持つ方もいるだろうが、『天羅万象 零』のシステムにはそれ専用の能力値も存在しており、また身分の高いキャラクターを作成することが含蓄無く許可されている)
 この結果、GM側からの世界観の説明と、プレイヤー側からの質疑応答で合計2時間は消費しただろうか。
 プレイヤーが何を基準に説明しているのか、どういった必要に迫られてその情報を欲しているのかが理解できないために、GMは適切な回答を用意することができない。
 また、GMの状況説明に対しても、世界観に対する根本的な知識が足りないために、プレイヤー側は説明の表現を正確に捉えることができない。

若殿:「名代は神宮家から指名されるの?」
GM:「神宮家の権威は、南北朝に分裂したとはいえ衰えていないからね」
若殿:「それじゃあ神宮家の許可を貰っていない弟が簒奪したんだから、周辺国家は何で動かないの?」
GM:「簒奪の過程で大した混乱も起きなかったから、つけ込む隙がないんだろうね」
若殿:「神宮家を無視して簒奪したのに混乱が起きなかったってのが変じゃない?」
GM:「もともと神宮家は放任主義なところがあるんだ。だからこそ戦乱が続いてるんだし、神宮家が直接介入することは滅多にないんだよ」
若殿:「それで良く王朝として維持できるね」
GM:「神宮家そのものは圧倒的に強いんだ。それに明鏡を生産できるのも神宮家だけだし」
若殿:「そうじゃなくて、上が秩序を維持していないんだったら、その代理である名代というネームバリュー自体が存在価値をもたないんじゃないかって事でさ」

 終始こんな感じである。
 キャラクターが知らないことをプレイヤーが知っている必要は無いとはいえ、名代の嫡男として生まれたPCを扱っているプレイヤーとしては、このあたりのメカニズムはきっちりと説明して貰わねば話が始まらないのは事実だ。
 だが、「状況を確認することで情報を整理する」という手段と目的が逆転することもしばしばだ。これは「どこまでを知っておくべきか」「どこから先がキャラクターですら知らないことなのか」という判断基準が、質問をしているプレイヤーの側で曖昧になっているからだ。
 このあたりの「ケジメ」はどのゲームでも重要である。
 プレイヤーは、その質問はキャラクターの立場でも行えるモノなのか、という自己認識を常に行わねばならない。
 一方GMは、その回答はGMとしてプレイヤーに与えるべき情報なのか、それともキャラクター視点で得られる情報なのかを区別した上で行わねばならない。
 だが、このあたりのケジメを付けるために必要な「前提的な知識」が双方に欠如していたのが、今回のトラブルの原因だろう。

 プレイに際して「知らなかった」では済まされない。
 知らなければ質問せねばならないし、質問やそれに対する回答を用意するには一定水準の判断基準が必要だ。そして判断基準は前提的な知識から算出される。
 某ぴよぷーが「RPGに勉強なんて必要あるの?」と豚のケツのような著書で述べていたが、

 あるに決まってる。

 ガリ勉になる必要はない、というだけの事なのである。
 と、一般論に転嫁してしまうと自己の研鑽がおろそかになってしまう。我々もまた精進である。



2/2

 スペースシャトル空中分解の事故に関して、ブッシュ大統領は
尊い命が失われたが、我々の旅は続けられる」
 と発言していた。

 うーん、フロンティア・スピリッツ

 実にうらやましい限りである。
 人命を犠牲にしてまで宇宙開発を継続する必要がうんぬんとかいう問題ではなく、
「犠牲者を『不幸な犠牲者』ではなく『尊い犠牲者』として扱うことのできる国民性」
 が比喩や冗談ではなく羨ましい。

 もし日本で同じ事故が起きれば、関係当局は
「無駄な技術のために無駄な予算を使って無駄に人命を失った」
 と世間の罵倒を浴び、死んだ宇宙飛行士たちは
「命を賭ける価値のない試みのために命を落とした」
 と世間に同情されることになっただろう。これでは死んだ宇宙飛行士も浮かばれない。

 無論、命は落とさないに越したことはない。
 それでもなお神父は「人命は何よりも尊い」という金言に反対意見を述べたい。
 人間には、少なくとも男には「その貴重な命を代価にしてでも挑戦したい目標」が存在する時がある。賭けた命が重いからこそ、絶対に勝利したい挑戦が存在する
 「人命は何よりも尊い」という言葉は、他人の命を預かる立場の人物が覚えておくべき金言であり、必ずしも挑戦者個人の決意を否定するための言葉ではないはずだ。
 他人事だからそう言えるのだ、という意見は至極ごもっとも。だが、現実に自らの命を危険に曝して挑戦してきた男たちが存在する。彼らは仮定や概念の存在ではなく、確実に存在したのだ。
 挑戦者たちが命を賭けて挑みたかった勝負、保証のない賭けに乗ってでも勝ち取りたかった成果……それを理解する事こそが、偉大なる挑戦に殉じた方々に対する最大の慰めとなるのではないだろうか。
 無謀な試みが推奨されるべきだとは言わない。引き際も肝心である。
 だが、
「失われる人命の重みで頓挫してしまう程度の重要性しか持たない挑戦に、自分たちの命を賭けるつもりはない」
 というのが、実際に命を賭ける挑戦者たちの本音ではなかろうか?

 『命よりも重い価値をもつ挑戦』だからこそ、命を賭けられるのではないか?

 同じ犠牲になるなら「不幸な犠牲」より「尊い犠牲」と呼ばれたいというのが挑戦者の願いではないだろうか?

 死という概念をネガティブなものとしか考えず、命よりも重い価値などあってはならないと固く信じている日本人にとって、「命懸け」とはすべからく「犬死する直前の状態」でしかないのかもしれない。
 そんな日本人の一人である神父は、「彼らの挑戦は偉大だった」と評して死者の尊厳をいたわるアメリカという国の精神を尊敬している。



2003年1月分

2002年12月分

2002年11月分

2002年9月分

2002年8月分

2002年7月分

2002年6月分

2002年5月分

2002年4月分

2002年3月分

2002年2月分

2002年1月分

2001年12月分

2001年11月分

2001年10月分

2001年9月分





ここまで逆読みする人もいないだろうが、せっかく見つけたのだからトップページに戻る


[PR]人気!男性用ムダ毛撃退ジェル:剛毛お悩み解決!効果を実感してください