みなさんのおかげです!
ゆあんが引っ越しすることになりました。
7年前、六畳一間のアパートで、ゆあんを始めました。患者さんのおばあちゃんの持ち物で「空いてるからどうぞ使ってや」と快く貸して頂いたおかげで始めることができました。
その頃は院長は接骨院に勤務しながら、私は祇園のマッサージ屋に勤務しながらのゆあんでした。
患者さんが口コミで一人増え、二人増え・・・
そして、今の場所に引っ越ししました。患者さんのおばあちゃんのうちの軽トラックを貸してもらって引っ越ししました。衣類と食器、布団、そして診療用のベッドくらいしか荷物もなくて、軽トラックで充分引っ越しできました。
そして、今日に至るまで、たくさんの方と出会い、共に育ってきたゆあんです。その間に息子も生まれ賑やかなゆあんになりました。
今日、開院当初から来てくれている患者さんが 「次に治療してもらうときは、新しいところなんやね。なんかここに来たのはこの前のようやけど、月日が過ぎたんやね」と
おっしゃっていました。彼女の感慨深そうな表情を見ながら私も胸にぐっと迫るものがありました。
本当に皆さんのおかげで、ゆあんは今日までくることができました。
感謝感謝です!
新しいゆあんも隅から隅まで、患者さんたちのご好意と、私たちの思いがこもった手作り感溢れるものになっています。
どうぞこれからも、ゆあんと仲良くしてくださいね。
支えていただいている方々、本当に本当にありがとうございます!これからもどうぞよろしくお願いします!

暑い夏を乗り越えよう
本当に本当に、暑い暑い毎日で、私はもうヘロヘロしています。わたしは、暑さに弱く、湿気に弱く、夏は本当に苦手です。
だけど、海や琵琶湖など、水が大好きです!小さい頃から必ず海水浴に行き、琵琶湖に行き、昨年は息子も一緒に三回も泳ぎに行ったくらいです。
海や琵琶湖を眺め、深呼吸するだけで、ずーんとエネルギーが充電されるように感じます。小さな頃は 海を見ては、「私はここから生まれてきた」って感じてました。
そして私は海や琵琶湖、水がとてもとても怖くもあるのです。水に限らず、山(土の大きな塊)もとても怖いのです。
理由は一つ。
どんなに頑張っても決して勝てないからです。ちゃんとルールを守り、侮らないように気を引き締めて、付き合わないと人間なんて、ひとたまりもなく飲み込まれてしまう相手だからです。
だから怖いのです。
こんな怖がりの私ですが、やっぱり暑い暑い夏を乗り越えるには、水辺に行くことになります。そして、
たくさんの水と、 浜茶屋の美味しいおでんとビールを満喫します!

自分見ィつけた!
私は自分がかなり記憶力がよい方だと思っていました。三歳くらいの時の記憶がはっきりあるからです。
しかし最近とても物忘れが激しくなりました。歳のせいかなあと思っていましたが、それだけではないようです。実際に小さい頃の記憶といってもすべてを覚えているわけではなく、すっかり忘れていることもあるからです。
自分にとって意味のあること、とても楽しかったとか、とても嫌だったとか、あとは自分という存在を証明できる内容は、どうも覚えているようです。
辛いことであっても、ある意味で、自分の現状を理由づける内容は、かなり覚えているようです。
今の自分があるのは、あの時こうだったからと正当化させることにつながるからです。反対にとても感動したり、楽しかったことも、やはり今の自分を証明することにつながったりします。
そのように記憶はかなり自分勝手なものかもしれないと考えるようになりました。
自分にとって、とても大事なことであっても、それ以上に大事なことができれば意外に忘れていたりするものです。
このように私の記憶力は決してよいものではなく自分勝手なもののようです。

年齢を重ねて
若い頃はなんだかわからないけれど自信に満ち溢れていました。
自分が努力さえすれば、なんでも叶うと思っていました。
近頃友人たちと話をすると「自信がなんだか持てなくなった」とみんな言うのです。私が友人たちを見ていると何もそんなふうに思うことないのに、自信を持てばいいのに、と思いますが、
みんな口々にそう言います。
「今まで普通にできていたことができなくなる」「 昔の自分に執着したくなる」など、みんな感じているようです。
ある友人は言います。「身の程を知り、自信をなくして己を知るのが歳を重ねるってことかもね〜、と。
私は自分を振り返り思うのです。確かに身体が無理が効かなくなったし、前のようにフットワーク軽くは いかなくなりました。そういう意味では自信を失った部分もあります。だけど、今だからできるようになったこともあるのです。
日々の当たり前の暮らしが、ありがたいと思える、大きくなった子供たちから小さい時どう思っていたか、当時の本当の気持ちが聞ける、 娘と酒が飲める、
小さな息子が心からいとおしく思える、などなど、たくさんあるように 思います。
外側に向いていたエネルギーが内側にも向くようになることも若い頃はなかったかもしれません。
内側を見るのは外側に向くエネルギーに限界が出てきたからかもしれません。
アクティブに動く自信はなくなったけれど、自分をより理解できるようになり、自重するようになったとも 言えるかもしれません。
歳を重ねることは悪いことばかりではないかもって、思うのです。

とにかく信じてみよう!
早いもので、今年もゴールデンウィークになりました。
気がつけば、息子が保育園に入って一月になります。 相変わらず息子は、毎朝保育園に行く度に、おお泣きしています。最初はこんなものだと思っていましたが、だんだん、私がストレスに感じるようになってきました。
そう。息子の泣く顔を見るのが、とても辛いのです。
保育園でたくさん遊ぶほうが息子にとっていいだろうと思って決断したことですが、まだ早かったのではないかと思えたりするのです。 現実は仕事もあるし、保育園に行ってもらわなければならないんだけど・・・
自分の中に様々な思いが交差して、とてもストレスに感じてしまうのです。
そして、次には保育園の先生が、ちゃんとフォローしてくれてないんじゃないか?保育園に息子が合わないんじゃないか?など思うようになりました。
しかし、そこで、ちょっと待った!
保育園を選んだ理由は?保育園は?先生たちは?
そう、保育のプロであると信じたから!
その保育園を選んだ理由は? いろんな人に聞いてみたけれど、とても伸び伸びと保育してくれていて 自由で給食も丁寧に作っているところだから!
それは今も変わってないんじゃあないの?
そうです。保育園は何も悪くはないのです。先生方はもちろん一生懸命、子供たちのことを見てくれているはず。先生は保育のプロで、その子の性格やその子が今どんな状態であるかをみて対応してくれています。
私は自分が辛いからって何かのせいに しているのだなあと思いました。
私はいつも何か自分が気に入らないと、何かのせいにして生きてきたのだと思います。
今回はその錯覚に陥らずにすみそうです。
私が信じてないと、息子はもっと不安になるでしょう。
とにかく信じて預けてみよう!
泣かないで登園できる日は遠くはないはず!と自分に言い聞かせています!

祝・保育園入園
春がきました。
我が家も新しい生活が始まりました。この春、息子が保育園に入園したのです。
毎朝同じ時間に起きて、しっかり朝御飯を食べて保育園に向かいますが、息子は毎日おお泣きです。保育園に連れて行かれるとわかっているので「いかへん〜いかへん〜お砂〜お砂〜」と保育園に行くのをやめて、公園の砂場に行きたいと私に訴えています。
息子のささやかな願いは聞き入れられることはなく、毎日保育園に連れて行かれるのですが、先生にお任せして保育園の門を出ると、保育園が割れるくらいの息子の泣き声が響いてきます。それでも私はさっさと保育園を後にします。
お迎えの時間になり、迎えに行くと息子は、朝とは違い、すっかり遊びに夢中になっています。子供の順応性には驚かされます!
実は、この息子の保育園入園にあたって、一番の問題は私自信でした。
生まれてからのこの2年間、毎日朝から晩まで、息子と遊んで過ごしました。保育園入園で、やっと自分の仕事ややりたいことがゆっくりできると思っていました。
しかし、ふと自由な時間ができると、たちまちとても不安になりはじめました。やらなければならないことも、やりたかったことも、山のようにあるのに何もする気になれないのです。
しばし、そんな自分を観察して過ごすことにしています。

雪の日に思ったこと
2月になってから、よく雪が降ります。我が家は山に近いので、雪が多く積もり、気温も低いのです。この冬は我が家の前の道にまで雪が積もり、何回か大きな雪だるまを作りました。
最初の雪が積もったのが嬉しくて、張り切って、大きな雪だるまを作りました。息子も手袋をはめ、楽しんでいました。次の日もまた次の日も、雪だるまは元気に我が家の前に座っていました。
そしてまた雪が降りました。雪はまた積もりました。我が家の雪だるまはリニューアルされました。雪はそれからしばらく毎日降りました。少し離れたところは、雨でも我が家は雪が降りました。
毎日雪ばかりだと、なんだかだんだん気持ちが晴れなくなりました。早く天気にならないかなあ、と太陽の日差しを待つようになりました。
二年前、息子が生まれた年はとても寒い冬で、雪も降りました。が、去年は暖冬で雪はあまり降りませんでした。待ちに待った冬の雪だけど雪ばかりだとうんざりしてしまうものです。夏は冬に憧れて、冬は夏に還りたい。歌にもありますが、そんなものなんですね。
人は常に今ないことを求めたり、懐かしんだりするんですね。
何事も今に感謝することは大切なことです。何事もほどほどにすることや適量にしておくことが、こつなのかもしれませんね〜。
今を感じ今を生きる。それがどんなものであろうと味わって生きたいものです。同じ状態はいつまでも続くことはなく、すべての物や人や事は、刻々と変化していっているのだと思います。

ちりとてちん
皆さんお久しぶりです。
毎日二歳になった息子と 遊んで暮らしているうちに、あっという間に節分前になりました。
さて、今私は、秋から始まった朝のNHKの「ちりとてちん」にはまっています。このドラマは、なんだかとてもほっとするドラマです。ヒロインが、すっとこどっこいで後ろ向きな性格であるところなんか、歴代のヒロインとは違って、とてもかわいく、愛着がわくのです。脇を固める人たちも、みんな人間ぽくて普通の人なのです。
先頃話題になったリリーフランキーさんの「東京タワー」は母親を中心に描かれていましたが、このドラマには父親と子供の関係が描かれているように思います。若狭塗り箸の職人である主人公の祖父と父親、その父親と主人公である若狭、落語の師匠とその息子であり弟子である小草若、草原と子供たち。
親を知らない草々と父親を知らない四草と師匠。様々な形の父親像が描かれています。
実際に血のつながりがある親子、血のつながりがない親子。どんな父親も深く子供を愛し、自分が生きる道を精一杯生き、後ろ姿を見せることを しているように思います。
子供もまた父親を求め、父親がこの世を去ったとしても背中を追い続けて生きています。連綿とつながり続ける命の尊さと人が求めてやまないものを感じながら楽しく見ています。

再生
昨年の1月に息子が生まれて、 早くも 一年8ヶ月が過ぎました。
息子が生まれたのはとても寒い日でした。 陣痛が少しきつくなり いきなり 破水して あっという間に息子は生まれてきました。 病院に連絡する間もなく
取り上げたのは 主人でした。
主人は息子の鼻を吸い 羊水を取り除き へその緒を洗濯バサミで 止めました。そして 病院に連絡し救急車呼びました。元気に泣く息子を抱きしめ 三人でいる幸せを噛みしめて救急車を待ちました。
すぐに救急車は到着し 7、8人救急隊の方が来てくださり 、皆さん「おめでとうございます!!」と 言いながら対処して下さりました。そして主人がへその緒を切りました。出産直後に初対面の人がたくさんうちに来て
、お祝いの言葉を頂いている光景を 、私は不思議な気持ちで見ていました。
出産に関して いろいろ勉強していた主人には 頭が下がる思いでした。そして主人を含めたくさんの人たちに 感謝の気持ちでいっぱいでした。
そんなふうに生まれてきた息子も 今ではミニカー大好きなやんちゃ坊主となり 日々暴れています。 我が家は毎日 笑いと悲鳴の連続です。

再生2
息子が生まれ、我が家は実に楽しく、日々成長することの喜びや驚きの連続でした。
息子の存在は人をつなぎ、人を微笑ませ、たくさんの出会いを呼び、私の心を本当に癒してくれました。
そして、ずっとずっと引きずってきた母親との関係にも変化が出だしました。母親には母親なりの愛情があって、その表現ややり方が私にとって好ましくなかったにしても、彼女なりに一生懸命やってきたんだなあと素直に思えるようになったのです。母親に対して憎んだり
恨んだりしていた自分は とても母親を愛していること 大切に思っていることを感じました。
私自身が依存していた関係だったことにも気づきました。
この年になって、ようやく本当の自分を生きる時がきたことをジワジワと感じています。
自分の過去に区切りを付けて自分の人生を自分で生きよう。 私が出会ったたくさんの人達に感謝しよう。いつも見えない何かに守られてきたことを忘れずにいよう。
そんなふうに思うこの頃です。

UNCONSCIOUS
1
過ぎ去った昔のことを、過去のことといいます。私にはずっと昔のことなのに、大人になっても思い出すたびに、怒りや悲しみがリアル感じられることがありました。
いい大人になっているのに、ずっと前のことなのに、いつまでも昔のことに捕われている自分が嫌で仕方なかったのですが、最近なぜそうなのかわかるようになりました。昔の出来事が過去のことになるのは、そのことが終わらないと過去のことにならないということに気づいたのです。時がどんなに過ぎていても、私がどんなに歳をとっても同じ事が繰り返されている限りは、過去のことではないのです。
幼い頃から私が家族の中で、主に母親から受けてきた抑圧は、形を変え色を変え、様々に変容しながら、時には美しい姿をしながら、今も続いていて、現在進行形であるがゆえに、過去のことにならなかったのです。
私は私自信の手でそれを終わらせて過去のことにしていくことが、必要であると感じています。それは私自身の為であると同時に、大切な私の子供達に同じことを引き継がせないためでもあります。そのために一つ一つ終わらせていこうと思っています。

UNCONSCIOUS 2
私は幼い頃、祖母と母と私の三人で暮らしていました。木造のアパートで、普通の家の二階を借りているというかんじでした。一階には大家さんの息子さん一家が住んでいました。祖母は某国立大学の事務というか、家政婦さんのようなことをしていて公務員でしたので、なんとか一家三人食べていました。
我家が世にある普通の家族でないことなど私はもちろん知りませんでした。母と祖母の口癖は「そんなことしたら(言ったら)笑われる」でした。私には「そんなこと」がどんなことなのか、いまだにわかりません。それは日によって変わり、その場にいた人によって変わる魔物でした。私は「そんなこと」が理解できなかったので、何度も何度も平手打ちを食らう運命にありました。
それは、とても逃げ場の無い恐怖でしたので、できるだけそうならないよう、いつも神経を使っていました。
が、根本的に何が「そんなこと」なのかわからなかったので、その恐怖から逃れることはできませんでした。

UNCONSCIOUS 3
私は三歳の春に幼稚園の三年保育に入園させられました。今思えばとても近いところなのですが、その頃の私にとっては「とてつもなく遠い所に知らない人と一緒にバスに乗せられて連れて行かれる」という感じでした。
ぐっと涙をこらえて幼稚園バスに乗り込んでも、何かあるとすぐに泣いていました。幼稚園に着いてからも、ずっと泣いては先生を困らせていたように記憶しています。母もきっと困っていたのでしょう、お菓子で私をつったり、叱ったりと手をつくしていましたが、私はますます幼稚園が嫌になってしまいました。
毎日毎日泣きつづけ、とうとうゴールデンウィークを過ぎた頃、幼稚園の先生がどなりました。
「毎日毎日泣いてばっかりいて!!」と。その後、母と幼稚園との間にどのような話し合いが持たれたのかわかりませんが、私はその後、二度とその幼稚園に行くことはありませんでした。

UNCONSCIOUS 4
幼稚園を中退した私は近くの徒歩で通える小さな規模の幼稚園に再入園しました。私はかなり幼稚園というものに対して恐怖心を抱くようになっていました。
徒歩通園だったので、あの恐ろしい幼稚園バスに乗らなくてすみましたが、登園後もみんなの中に混じって遊ぶこともできずに、帰る時間が来るまで、ずっと先生の手にしがみついていました。ついたあだなは「ひっつき虫さん」でした。多分一学期の間中、私は先生の手を離さずに過ごしていたと思います。
先生も根気強く私の心が解けていくのを待ってくださいました。いつしか園に慣れ、友達と遊べるようになりました。退屈で、憂鬱でいつもピリピリしながらいなければならない家にいるより、私は幼稚園で過ごす時間が大好きになりました。自由な自分の居場所が、幼稚園の中にあるような気がしていたのだと思います。

UNCONSCIOUS 5
人気映画のハリー・ポッターの二作目に、屋敷しもべ妖怪のドビーというのが出てきます。ドビーはハリーの同級生で仲の良くないドラコ・マルフォイの屋敷の奴隷です。ハリーが偉大なる魔法使いであることを知ったドビーは、ドビーなりにハリーを守ろうとします。そしてそのたびに自分に対してお仕置きをします。
「ドビーは悪い子!」と言いながら激しく壁に頭をぶつけ続けたり、自分の手にアイロンをあてたりするのです。私はそのドビーの自責行為が映画のなかとはいえ、耐えがたいシーンに感じました。
ドビーの主人は機嫌が悪いとドビーを容赦なく足で蹴りつづけるのですが、それでもドビーは飛び上がりながらも悲鳴を上げながらも、主人に従ってついていかなければなりません。なぜなら、屋敷しもべ妖怪だからです。
屋敷しもべ妖怪は主人を選ぶことはできないのです。最後はハリーの知恵によってドビーは主人から開放されます。ドビーはハリーに心から感謝し、マルフォイには今までの恨みを晴らすべく一撃を食らわして、姿を消します。
映画の中でほんの脇役のドビーの存在がなぜ、私の心に引っかかったのでしょう。それは自分とどこかしら重なる部分があったからかもしれません。

UNCONSCIOUS 6
幼稚園に慣れてから、どんどん おてんばぶりを発揮しだした私は次第に周りの友達に対して、かなりはっきり物を言う子になっていきました。いつも一緒に通園していた友達は三人。一人は住んでいたアパートの大家さんのお孫さん、もう一人は斜め向かいに住んでいたピアノの先生の娘さんでした。
私は友達が大好きでした。友達の間では自分の思っていることをはっきりということが出来たように思います。でも、友達の側から見れば、私があまりにもきついので反対意見を言えずに私の言いなりにならざるをえなかったようです。もちろん私にはそんなつもりは全くありませんでしたけど・・。
特にピアノの先生の娘さんは内気な子だったので、いつも返事が返ってくるのに時間がかかったり、なにかあると泣いたりしていました。きっと彼女は言いたいことが言えなかったのと、私が言わせなかったので とても悔しかったのでしょう。
あのころはそんな人の気持ちなど考えもせずに、自分の言い分を主張し、正しいと感じていることは何がなんでも押し通す私でした。ある時、ピアノの先生は私に言いました。
「のりちゃんは お山の大将やなあ。」と。私はなんとなく嫌な気持ちでしたが、彼女の真意までは察することはできませんでした。

UNCONSCIOUS 7
幼稚園の帰り道は毎日母が迎えに来ました。一緒に帰っていた他の二人のお母さんはそれぞれ仕事をしていたので、いつも来れないのにうちの母だけは毎日来て、私はとても うっとうしく思っていました。母がいると道草をくったり、言いたいことを言えないので、母がいなかったらいいのになあと毎日思っていました。
その願いがかなったのか、ある日、その母が時間に迎えに来ませんでした。
おかげで、子供たちだけで帰れるようになりました。私はとても開放されて自由な気分でした。もちろん、そのころ幼稚園から家までの間の地理はおおよそ知っていたので、自分たちだけで帰れる自信はたっぷりありました。そこで冒険心が一気に溢れ出し、いつもと違う道で帰ろうと私は考えました。
他の二人も私に続きいつもとは違う道で帰ることになりました。私はとても満足しました。
自分たちだけで見事に帰って来れたとき、なんだか英雄になった気分でした。ところが、そのあと恐ろしい現実がまちかまえていたのです。

UNCONSCIOUS 8
家に帰ると留守でした。しばらくして 鬼の形相の母が現れました。「迎えに行ったのに、いなかった。どこを探してもいなかった。」と言うので、私は得意げに、自分たちで知っている道を通って帰ってきたことを話しました。
すると母に思い切り殴られました。そしてその後、他の二人の家に連れて行かれ「ごめんなさい。もうしわけありません。もうしません。」と土下座させられました。とにかく恐怖でいっぱいで、しゃくりあげながらも 必死で私はあやまりつづけました。
「もういいやんね。ちゃんと帰ってきたんやから・・」と友達のお母さんは困ったように言っていました。
その後ろで、何があったのかわからない様子で、友達がお菓子を食べながら、そっと私の様子を見ていたのを憶えています。とにかくわけがわからなかったけど、あやまらないと事が終わらないから私は母の言うとおりにしました。
今から思えば母は、お帰りの時間には間に合わなかったのですが、自分が迎えに行ったのに私が待っていなかったことに腹を立てたことと、ちゃんと連れて帰って来れなかったことに対しての言い訳のために私にそうさせたのだとおもいます。
が、私にとっては忘れられない屈辱的な出来事でした。 母がそういうひとなんだから、ちゃんと待っているか、帰ってきたときの母の態度を見てうまくごまかせばよかったものを・・・。
こうして書いてみると私って本当に馬鹿な子供だったんだなあと思います!

UNCONSCIOUS 9
私が通っていた幼稚園は日本キリスト教団の幼稚園でした。園長先生は広沢勝彦牧師でした。白髪で背筋のすっと伸びたとても威厳のある方でした。とても静かで優しく、そして「ちょっと怖い」と子供心に感じていました。彼はいつも銀色の光に包まれていました。彼の周りや彼の歩いた後には白い光がプワーっと残っていました。
彼はいつも私に言いました。「あなたは神様の子供です。どんな時も神様が一緒にいて、守ってくださっていることを忘れてはいけません。」と。私は素直に彼の言葉を信じていました。どんなに理不尽なことがあっても、もどんなに悔しくても彼の言葉を思い出せば乗り越えられるような気がしました。
彼は病に伏してからもずっと人々のために祈りつづけていたそうです。
長い闘病生活の中で出来た褥創がありましたが、とても綺麗に治癒した後彼は天に召されていかれました。時が過ぎても彼の存在は今も当時のまま幼稚園に存在していて、彼の魂は今も子供たちのことを見守っています。一人の大人の存在や、心強い言葉が子供の心を救うことにつながっていくことがあります。
今大人たちは本気で生きていく強さを身に付けること、自分を大切にし、人を感じ大切にしていくことを、子供たちに伝えていかなければならない時代だと思います。
あの頃よりもっと生きにくくなってしまった世の中ですが、一人でも多くの子供たちが自分を信じて踏ん張って生きていけるようにと祈らずにはいられません。

UNCONSCIOUS 10
幼稚園に慣れて、先生方の愛情に日々満たされていった私は、今まで家の中で抑圧されていたものを外で吐き出すようになりました。もちろんそれは、今だからわかることで、当時は幼稚園がただただ、楽しいだけでしたが・・・私は普通に話し、普通に振舞っていることが、他の人からは、えらそうに命令しているように見えていたようです。
きっと、客観的に見れば、えらそうな口の利き方で、命令口調だったのだろうと思います。
母は私に何か言う時、必ずいつも怒りながら大きな声で命令するように言いました。私はある日、母の機嫌が悪くないのを見計らって、「何か言う時怒って言わなくても ちゃんと話してくれればきけるよ。」と言いました。
母から返ってきた言葉は、「あんたは優しく言うて、きく子供じゃない!!」でした。私は言うことを聞かない子供だったのかもしれません。けれど私の記憶の中では、母が優しく物事を諭し、教えてくれたことはありません。
私自身が人に対して物を言う時に、命令口調で言っていることを自覚したのは主人と出会ってからでした。母は年老いて勢いが弱まってはいますが、今も身近な人には命令口調で言いつづけています。
私はこの年になってから、ちゃんと人に自分の思っていることを伝える練習をしています。母もまた優しく諭されるという経験が少なかった子供時代を過ごしてきたであろうことに、私が気づいたのは昨年のことでした。

UNCONSCIOUS 11
我が家の家計は、公務員をしていた祖母の収入に支えられていました。母は定職にはつかず、時々パートをしていました。
とても裕福ではなかったのですが、母は私に無理やりピアノを習わせました。「あんたは落ち着きのない子やから、じっと座れるようにしなあかん」という理由でした。箱型のピアノを買い、毎日2〜3時間、私をピアノの前に座らせました。
母は、私をピアノの前に座らせておいて、昼寝をしていることもありましたが、その日の気分で私の横にイスを置いて座り、「もう一回やり直し!」と、鬼のように怖い顔で命令しました。
私にとってその時間は地獄の様でした。頭の中を恐怖と訳のわからないイライラでいっぱいになり頭蓋骨が爆発しそうでした。母はピアノがひけませんでした。私はそんな母に怒鳴られるのは納得できませんでした。
もちろん私はピアノが大嫌いでした。母は時々「私が習いたくても出来ひんかったんやから、あんたはお願いやからピアノをひいてちょうだい」と、嘆願してきました。私は母が、なんだか哀れでした。ピアノは大嫌いでしたが、「ひきたくない」とは言えませんでした。
セラピストの高安マリコさんが言いました。「その頃、じゅうぶん身体を動かすことをさせてもらったら、あなたはもうちょっと落ち着いた大人になれたのになー」と。

UNCONSCIOUS 12
私と一緒に幼稚園に通っている友達のお母さんがピアノの先生でした。彼女は音楽大学出身のバリバリのピアニストで、高学歴と高いプライドの持ち主でした。確かにピアノに関しては、かなりのテクニックを持ち、ピアノを弾くために努力の限りを尽くし、ピアノひとすじの人生を送ってきた人でした。
でも、そんなことは私には関係なく、私は先生の娘さんに対しても偉そうに口をきいていたのだと思います。先生は大変怖い人でしたので、娘さんは明朗快活とは言えない性格でした。そんな娘さんと私の関係を見ていて、自分の娘が他人に偉そうにされているのが、先生はきっと自分のプライドが許さなかったのでしょう。
レッスンにいくと、手を叩かれ、背中を叩かれ、ひどい時は一音弾いたとたん怒鳴られ、一時間ずっと何やらガミガミ言われ続けるだけで、その日のレッスンが終わるということもありました。
そんな日は、家に帰ると先生から母に電話があり、何たら私のどこが悪いかをこんこんと説いていたようでした。そして私はまた母からも「先生がこんなん言わはった」ともう一度ガミガミ言われ、耐え続けなければいけませんでした。先生や母が何を言っても私の心には何一つ残りませんでした。
やがて、怒鳴られだしたら、ただそこにじっと座ってその時間が過ぎるのを待つようになりました。もちろん頭の中では違うことを考え、まともには聞いていなかったようです。ただひとつ先生が言ったことで心に残ったことがあります。それは、「だいたい、あんたの親が辛抱ない人間やから、あんたが生まれたんや」という言葉です。何の話からそう言われたのかわかりません。何かわからないけど、とても悔しく感じました。
けれど、私は決して泣きませんでした。泣かない私は、よほどかわいくない子に見えたことでしょう。だって先生の娘さんはすぐに泣く子でしたから・・・。母はいつも「すごく偉い素晴らしい先生や」と言っていましたし、ずっと先生を崇拝していたので私がいろいろ言われたことに関して、母は先生に何も言われなかったのでしょう。私は先生が大嫌いでした。母がとても哀れに見えました。もちろん先生がそんなことを私に言ったなんて、口が裂けてもいえませんでした。

UNCONSCIOUS 13
我が家はよくお客さんが来ました。お客さんは私に優しいので大好きでした。何より母が、お客さんが来ているあいだは私に対して優しく笑顔になるので来客は大歓迎でした。母の友人の男女数名が入れ代わり立ち代り、よく出入りしていました。私は女性のお客さんより男性のお客さんのほうが好きでした。男性のお客さんは身体を使って遊んでくれるので、私は大喜びでした。
その中でも、一番よく遊んでくれた人はAさんでした。私はAさんが大好きでした。Aさんは私に命令することはありませんでした。いつもおだやかに話し、いつも笑顔でした。時には私を連れて外出して、私の好きなものを買ってくれることもありました。
私が小学校2年生のころ、母のおなかが大きくなりました。私の弟か妹が生まれることになったのです。3年生に進級するのと同時に私の姓はAとなりました。そして、新しく来た父Aさんと生まれた妹のふたtりが新たに家族として増えました。私はとてもとてもうれしく感じていました。

UNCONSCIOUS 14
家族が増えても相変らずアパート住まいの我が家でした。そんなある日、犬が大好きな私のもとに、子犬が来ることになりました。その子はマルチーズ種のメスでした。ルビーという名前をつけて、とても、とてもかわいがっていました。ルビーはモニモニで黒くて丸い目をした本当にかわいい犬でした。それから、3ヶ月ぐらいの間、私は学校が終われば急いで帰ってルビーの世話をし、一緒に遊びました。
その時のアパートは某大学の正面にあり、当時の大学の敷地内は車もなく絶好の運動場でした。私はルビーとともにその敷地の中を思う存分走り回りました。今まで私を口うるさく縛り付けていた母も、妹に気をとられていたので、私のことまで手が回らなくなりました。母の束縛から解放され、ルビーと日が暮れるまで遊べて私は天国のような日々を過ごしました。
でも、ある日、信じられないようなことが起こりました。いつものようにルビーと遊ぼうと急いで家に帰ったのですが・・・ルビーの姿がどこにも見当たりません。ルビーに関係していた道具一式もすべてなくなっていたのです。ルビーはよその家にもらわれていったのでした。今から思えば、当たり前のことですが、アパートは動物を飼うのは禁止されていました。それで、クレームがあったようです。
けれど、幼い私には、納得するも何もありませんでした。とにかく行き場のない悲しみに、私は泣きました。自分が宙に浮いて何もまわりにないようなさみしさでした。心臓が壊れてしまうかもしれないと思うほど、胸が痛みました。どのくらいの時間が過ぎたのかわからないほど泣いて、泣いて、泣き疲れました。そして、泣くのをやめました。次の日から、もう泣きませんでした。
この時以来、私は家の中で泣かなくなりました。私は泣かない子供になりました。後で聞いたところによると、ルビーは滋賀県のお医者さんの家にもらわれていったそうです。ルビーにとって、そのほうが幸せだったのかもしれません。きっと、犬なりに、よい生活をさせてもらったことでしょう。私はそう思いたいのです。

UNCONSCIOUS 15
父が来て2年が過ぎた頃、祖母の実家の近くに狭い一軒家を見つけ、そこに引越しました。それを境に父は、父親という立場や父親としての威厳みたいなものを誇示したがるようになりました。形にこだわり、何かと口うるさく、私たちを型にはめこもうとしました。
食事のときは様々なうんちくを披露して、それを聞かされている他の者は、だまってうなづいて聞かなければなりませんでした。同じ話しが何度も出てくることもありました。私は次第に父の存在をきゅうくつに感じるようになりました。食事の時間はまったく楽しくないものになりました。楽しくなさそうにしたり、うんざりしながら食べるような態度をとるようになりました。
すると、母に後から「態度が悪い」と注意されました。母は私の言動について、「いい子」でいるように命令しました。でも、私も少し大きくなっていたので、母のいいなりにはならなくなっていました。
私はだんだん家にいるのがうっとうしくなりました。理由をつけては外へ出歩くようになりました。母は私が家にいないことに関しては特にとりたてて何も言いませんでした。私が家にいて、父の前で楽しくない態度をとるよりは、家にいないほうが楽だったのでしょう。私は大きくなったら一刻も早くこの家を出ようと強く思うようになりました。

UNCONSCIOUS 16
私と妹は9歳、歳が離れています。母は、妹が生まれた時、私を産んだときよりも年齢を重ねていたので、ずいぶんと育て方が違ったように見えました。私には許されなかったことが、妹には許されていました。これだけならどこの家庭でもあることでしょう。しかし私の家の場合は、その意味がすこし違っていました。
妹は大人しい性格で人見知りが激しく、ものを言わず、何かあるとすぐにだまりこんでいました。涙をためて、ぐっと固まってしまう子供でした。母はそんな妹にとても手を焼いていました。そして母は妹に対してとても気を使うようになりました。私には機嫌をとっているようにさえ見えました。私は妹の言いなりになっているように見える母と、やりたいようにやっている妹を見ていると、とても不愉快でした。
やがて私は妹にきつくあたるようになりました。きつく叱ったり、時には叩いたりしました。すると、後から母がひどく私を叱りました。「あんたの子供と違うやろ!叩くなんて許されへん」と言っていましたが、私には関係ありませんでした。母の見ていないところでは、ずっとやりつづけていました。
今になって妹は私が怖かったと言います。妹よ、ゴメンナサイ。私は妹が嫌いだったのではありません。とてもうらやましかったのです。今になってわかることですが、育て方が違ったとしても、私も妹も心に刻み込まれたことは同じもののようです。
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