
神戸・須磨事件
A君について
《犯人に仕立て上げられるまで》
○彼は人から向けられる心(相手が自分をどう思っているか)に、とても敏感な子供だった。そこに、否定的・批判的な要素、違和感等が混じっていると、途端に恐れや怯えを抱いてしまう。それは、「受け入れてもらえないこと」に対する恐れや怯えであり、裏を返せば、人と共にありたいという欲求、愛されることを求める気持ちがあったからである。これらの欲求は誰にでもある。しかし彼の場合は他の人々よりも“敏感”だったのである。
それは、父親や母親が同じような恐れや怯えを抱きながらも、何とか“世間”となじみ、人並みに、というところで頑張らざるを得なかったからである。離島の出身、集団就職という父親の状況を考えれば、いくつもの心の緊張や恐れを抱いていたとしても何の不思議もなく、むしろそのなかで、何とか受け入れられようと心を遣った姿がうかがえる。その人を夫とし、共に地域や社会で生きようとすれば、妻は、否定や批判・非難には敏感になる。そう思われないように、そう思われたくない、そう思わせない、そう言わせたくない、と心が傾いていくのも致仕方ない。
○心が敏感な自分の子供が、まわりにとけ込み、仲良くやっていけるのかどうか、それは母親として最も気がかりなところである。彼女はそのことに大変心を砕いた。厳しい口調や“口うるささ”は、彼女の愛情が薄かったからではない。むしろ逆に、何とか自分の子供がより良く育つようにとの願いが根底にあったからである。そこには当然「まわりに受け入れられること」に心を遣った自分たちの恐れや怯えも含まれてしまっていた。何か間違ったことをすれば非難される。そのことは、やがて、できる限り自分の子供を肯定的に見ようとする姿勢へとつながり、しかしいつしか、自分の子供の側からまわりを見る傾向を持つに至った。ともすると、「自分の子供は正しい」とばかり主張するようにまわりからは見えたはずである。けれどもそれは、彼女が自分の子供に事の善悪を教えなかったこととは全く違っている。彼女の言動の動機は子供を正当化することではなかった。むしろ、より積極的に子供を肯定的に見ていこうとする思いと、その奥の「間違っていなければ否定されない・受け入れられるのだ」という、自分たち夫婦のあり方と重なる心の部分があってのことだったのである。しかし、それはなかなか周囲の理解を得にくいことだった。
夫の、「どこか自信の持てない心」は、彼の状況からは致仕方のないもの。だとすれば妻はその部分を補わざるを得ない。ふたりで家庭を維持し、動かしていくには、「強さ」も必要とされるのだから。
○A少年は相手が自分に向ける気持ちを感じ取る。父親が自分に対しても、どこか“ひいている”こと、母親が「この子は大丈夫だろうか」と心配していること。ふたり共が、何の屈託もなく自分を思うことができないことを感じ取った。ふたりの緊張ももちろん伝わってくる。彼はいつも“孤独感”を持った。両親が自分を顧みてくれないからではない。「自分と同じような心」を持つ者を見つけられなかったからである。相手が自分にどんな気持ちを向けているかを、彼と同じように感じ取る者、同じように傷ついた者が、もし、いたとしたら、彼は“孤独”を感じずにすんだであろう。
小さな子供にとっては、「人の心のあり方は千差万別」などという意識などない。あるのは、「この人は自分と同じ。この人は自分と違う。」といった判断・区別だった。そこでは彼にとって「自分と同じ」と思える者がいなかったのである。この彼の“孤独感”を理解できる者は確かにいる。人よりも人の心を敏感に感じてしまう者たちである。彼らは同様の孤独感を抱えて生きている。
○遊んでいても、家族といても、何をしていても「ひとり」という寂しさ。それは受ける愛情の欠如や薄さとは全く異なるものなのだ。どんなに母親が優しくし、心配したとしても、どんなに父親が遊び相手になったとしても。
○この彼の“孤独感”という心のかげりは、そこに「憑依(ひょうい)」という霊的影響を引き寄せる。すでに他界し、地上を去ったはずの者(しかし、地上時代に抱えた心のかげりを手放しきれずに、本来戻るべき霊界へ戻れずにいる者)が、彼の心のかげりに引き寄せられてくる。同じ“孤独”というかげりを持つ霊である。その霊は、少年に恨みがあるのでも、少年の知り合いでもない。ただ、「同じ心のかげり」でつながるのである。この、「憑依」とは、何も特別なことではない。地上に生きる人間が、かげりの心を抱けばそこに「憑依」は起きる。しかし大抵の場合は、気持ちが晴れたり、気が済んだり、他に嬉しいことがあったり、という具合に、心の状態が変化するために、つながっていた霊は自ずと離れていく。その繰り返しをしながら地上の人々は生きているのである。誰にでも心がくもる時はあるのだから。
ただ、心が晴れないまま、気が済まないまま、満たされないままの状態が続けば、憑依霊とのつながりも依然として解消されない。そこでは、憑依霊からの「影響」を受け、あるいは深く入り込まれ、あるいは意識を占領・支配されるまでに至る。憑依霊の心の状態、あるいは他界した時の肉体の状況が、憑依を受けた地上の人間の心と体に反映されることもよくある。しかしここで気をつけておいてほしいのは、憑依霊を悪者扱いしない、という点である。もちろん邪な心で人間に影響を与える霊もいるが、そのほとんどは、自分の苦しみ・悲しみ・寂しさ・悔い・くやしさ・・・・といった、さまざまな心のかげりから抜け出せずにいるだけなのである。言ってみれば、気の毒な者、非常に可哀想な状態の者なのだ。まして“恐れる”存在ではない。
○少年の“孤独感”とつながった憑依霊もまた彼同様、「自分はひとりぼっち」という寂しさのなかに心を沈めてしまった者だった。誰も自分を分かってくれはしない、自分の寂しさは誰にも分からない、同じ心でいてくれる人はいない、どうせ自分は理解されない・・・。これらの心がつながり合って、少年と憑依霊は重なった。この憑依霊にはひとつの「癖」があった。“大げさに言ってしまうこと”である。それは寂しさ故に人の気をひくため、注意を向けさせるためだった。ありもしないことやできもしないことを、つい口にしてしまうのだ。そこで人の気持ちが少しでも自分の方へ向けられれば、嬉しい。だから、また言ってしまう・・・。憑依霊のこの「癖」は当然A少年にも表れる。彼にそんな気がなくとも、つい口が動いてしまうのだ。それに反応する相手の心が、少年には(もちろん憑依霊にも)おもしろかった。それは驚きだったり、恐れだったり、不安だったりした。自分の口にする言葉で相手の心が動かされるのがおもしろかったのである。
憑依霊と少年は、心のかげりが重なっただけでなく、この、「おもしろい」「何となく嬉しい」というところでも重なり合ってしまった。これによって、憑依霊からの影響はますます強く、つながりは深くなっていったのである。
いくつかの理解し難い言動や、「異常だ」と周囲が受けとるような行為は、少年自身が引き起こしたことというよりも、この、憑依霊によって少年が動かされたと考えられる。だからと言って少年の言動の全てを「憑依霊のせいだ」とするわけではない。相当強く影響を受けていたということである。
○「霊」「霊界」「憑依」という言葉を見聞きすると、多くの人々はまず、不信感や嫌悪感、否定的見解をあらわにする。その言葉や内容は「科学的でない」という理由で、初めから取り合うまい、とする。しかし、そうではないのである。
確かに「霊」や見えない世界のことを材料として、金銭を得ようとしたり、名前を売ろうとしたり、人に恐怖心を抱かせる者はたくさんいる。そのほとんどが、自分の思いたいように見えない世界をとらえ、自分の都合の良いように言ってしまっている。貫かれる法則など何もない、自分なりの見方を展開する。それは否めない。しかしだからと言って(そういう者たちが多いからと言って)、それが「霊」や「見えない世界」の存在を否定することにはならないのである。そこでは、特にこの国は、他の国々に比べて“認識”のうえで遅れている。論理的・客観的・あるいは科学的方法により、見えない世界の実在は明らかにされているのだから。(必要だと思うなら諸外国の“研究”で確認すればよい。)
それと同時に、自分たち自身を省みてほしい。何も「霊」や「見えない世界」のことに限らず、自分の思いたいように事実を歪めたり、自分の都合の良いように偽りを言ってしまっていることはないのかどうか。論理性や客観性を欠く物言いを人間はするのだし、目に見え、形があり、事実として明らかなことすら歪めることはよくあることである。「霊」や「見えない世界」のことだけにそれが当てはまるわけではない。
正直に、真面目に、あるいは真剣に日々を生きる人たちが大勢いるのと同じように、「霊」や「見えない世界」「見えないエネルギー」について、真摯に取り組む者たち、それを自分のために(自分の都合や欲のために)使うのでなく人に役立てようとする者たちも間違いなくいるのだ。「霊」や「見えない世界」のことをすぐに受け入れるのが無理だとしても、まずは、「それは絶対にあり得ない」という前提をはずして頂きたい。そうでなければ、「そういう類のものは、うさん臭い。」という否定的な先入観を手放して頂きたい。自分がそう思えないから、または、自分がそう思うから、というものを判断の根拠にすることこそ「科学的でない」し、「論理的でなく」「客観的でもない」のである。
○「憑依」が特別なことでなく、人の心のかげりが地上近くで迷っている霊を引き寄せるのであれば、3年前の事件当時のことを振り返った時、実に多くの者が「憑依」を受けたのだと考えられよう。(もちろん「憑依」はその事件の時だけでなく、いつでも起こっているのは言うまでもないが。)事件の残忍さは、人々の心に強い恐怖心を巻き起こした。人に対する不信感や警戒心も増す。猜疑心や排他性も増幅される。それだけで、もうすでに「憑依」を受けるだけの“かげり”は、心に生まれている。憑依によってその“かげり”はふくらむから、余計にそこにとらわれ、落ち着かず、苛立ち、不安になるのだ。地域丸ごとそのかげりに覆われて、人々の心は逃げ場を失う。
捜査に携わる者たちは、あせりと苛立ち・やりきれなさのなかにいた。それを指示する者たちは全国からの“注目”に緊張し、各方面からの圧力を苦しく思い、さらに追い詰められる。犯人逮捕のみに集中することが、「それをどうしてもやらなければ」という呪縛になる。逮捕しないわけにはいかなくなる。「誰かを」。そこに憑依が起こる。
報道に携わる者たちは、犯人探しに躍起になった。少しでも早く、他社とは違う何かを、他社を出し抜いて・・・。それが報道合戦の始まりであり、どんな手を使っても、あるいは、人にどういう思いをさせても、という“かげり”を生む。そこに憑依を受ける。
○「少年の逮捕」は事態を収拾することにはならなかった。「衝撃」というさらに大きなかげりが人々の心を揺さぶったからである。
地域の人々、全国の人々、それぞれが「信じられない」という驚愕と共に、絶望的な思いを持った。「そんな子供があんな事件を起こすようになってしまった」のだ。「なぜなのか。」
犯人逮捕は人々に「安心」をもたらすはずのもの。しかしそうではなかったのである。
報道関係者にも大きな打撃だった。自分たちがしてきたこととは全く違うものが提示されてしまったのだから。「犯人像」も「結果」も。彼らは挽回せねばならない。自分たちの“漏らしてしまったもの”を残さずに。それはさらに新たなかげりと報道合戦をエスカレートさせた。「本当にそういうことなのか。」「自分たちは間違っていたのか。」そう反問することもできぬまま、「少年が犯人」を動かぬ前提としての報道姿勢を取ることになってしまった。なかには、あくまでも「事実」や「客観性」を重んじようとした者もいた。しかし、大きな流れにその声もかき消され、その流れは今も続いている。