Hosono House
二年前僕は『Hosono House』というアルバムを出した。このLPはある意味で、はっぴいえんどへの
未練を残しながらも訣別を表したものになったが、同時に次に行くための僕の道標となった。
最近作った『トロピカル・ダンディー』もまさにそうなのだが、僕がアルバムをはき出す時期というのは、
いつも過程の真っ最中である。逆に言えば、ソロ・アルバムとは結果的にステップのための足がかり
という意味を持ってしまう。
さて、その『ホソノ・ハウス』の中に『僕は一寸』という曲があるのだが、日本語のロックがどうのこうの
という騒ぎの中心にまつりあげられた゛はっぴい"も過去のことになったし、少し静かにしていたいという
思いを込めて「僕はだまるつもりです」と歌ったのだが、その後のめぐり合わせで入ってしまったキャラメル・
ママのおかげで、一層落ち着く暇などなくなってしまったものだ。
このキャラメルは名前に引きずられたまま、音楽以外の要素でメンバーが疲れてしまった。だまるつもりの
僕が、その後のTINPANへのいきさつを含め、多くのことをしゃべる立場に立ってしまったのは皮肉なことだ。
我が国ではロックをやるには゛音"だけではどうも足りないらしい。ようやく落ち着いてきた近頃では、もう
無駄なことは考えず、言わず、を実践できる余裕も出てきた。と言っても、しゃべること全てが音楽にとって
無駄とは決して思わない。音楽を楽しむための手段として利用する価値はある。
ニルソンは日本盤のライナーをいらないと言ったらしいが、僕や諸君にとってライナー・ノーツというのは
楽しめるものだ。しょせん僕の書いていることなんか、矛盾だらけだし、自分でものが書けるとも思っていない。
できるのは音楽であり、その行間を補足するための言葉である。そういう意味では大滝詠一の『ナイアガラ・
ムーン』もライナーがあって、さらに楽しめるものになっている。僕が一年以上滅入っている時、彼は福生に
こもって着々と自分のやりたいことをやっていた。その成果が『ナイアガラ・ムーン』にはいっぱいつまっていて、
圧倒されるようだ。
彼のアルバムは僕のとは対照的で、ひとつの段階をまとめ、設計し、安定した土台の上に組み立てていく、
といった感じで、僕の「中間試験アルバム」に対し「定期試験アルバム」といえる。これは実に蟹と獅子の違い
でもある。水と火だ。
僕が音楽を分けるとすれば三つになる。好き、嫌い、右から左へ耳の中を通り過ぎる、の三つだ。
この趣向が基盤で、うまい、下手、あるいはすごい、などは補助的な形容詞にすぎない。
スーザン・ソンタグが「趣味を軽く扱うな。趣味は選択であり、それはその人の生き方につながる」と
その著『反解釈』で書いているが、まったくその通りである。だからこそ僕はあえて趣味で音楽をやっていると
言ってしまうのだ。その音楽こそ、その人の趣味で固められたものでなくてはならない。ハングリーであろうと、
スクウェアまたはフリーキーであろうと、その人の生き方、つまりは選択なのだ。
野暮なことはできないというダンディズムもこれに通じる。『ナイアガラ・ムーン』は大滝のダンディズム、
『トロピカル・ダンディー』は僕のそれが表れているが、僕の場合、A面とB面とに分ける必要があったのは
少なからずひっかかっている。
B面はHosono House、A面はこれから先にかかっていると見て分析、組立て、まとめてみたが、どうしていつも
僕は変わり目の途中でアルバムを作ってしまうのだろう、と我ながら自分の混乱さにあきれてしまう。
というわけで今はもう、すぐに次のアルバムにとりかかりたい気持ちだ。
今、熱とインスピレーションは最高潮なのだが、悪い星のもとに生まれたため、常に今やりたいことは先に
おあずけになっちゃうのだ。それは今のところ全国縦断コンサートという荷だ。
これは十分意味のあるコンサートなので、おそらく最後までやりとげると思うが、スタミナのない虚弱児には
ちときつい。本当に体力のある奴がうらやましい。
ところで、スタジオ界の奇人、ラテン・パーカッションのラリー寿永氏から面白い話を聞いた。キューバの人が
日本について言ったことだが、ラテンに限らず日本の音楽は四〇年の遅れがあるという。普通よく一〇年とは
言うが、四〇年とはまたなんと!
でも、そのあちらの人は見抜いているようだ。それは音楽をやるという基準の置き方の違いを指摘しているからだ。日本では「うまい、下手」で音楽をやっているが、オイラ達は好き嫌いでやっているズラ、ということである。
酒のきれないラリーさんは、日本の音楽界のレコードの作り方に参っている。恐らくほとんどのスタジオ・
セッションの人は思っているのだろうが、ラリーさんのように純粋な人ほど先に神経が参っていくようだ。
しかし彼も燃えていて、日本はこれからだという信念をもっているらしいが、「日本バカヤロー」という逆説的な
LPを作りたがっている。
今まで僕や仲間がか細い腕でやってきたのは、その四〇年の開きを一年でも縮めることだったのかも知れない。四〇年が二〇年に、そして〇年になった時、初めて日本のアーティストは楽な気分でやっていけるのだ。
だから今は、自分の中のロック史なんてとても振り返る余裕はないし、これから始まる序曲のスコアを書いている
状態なので、本番はまだまだだ。
はっぴいえんどの作った空間は地球上でも特殊なもので、周りの空気とアツレキが生じ、かなり四次元的に
ゆがんでしまった。この二重ラセン構造の空間に今も僕はいると思っている。そのような特殊な空間を作る音楽
にはすぐにピンとくる。要するに、盟友のようなものを見ることができるわけだ。
円盤を見る能力はないが音楽はわかる。ニューオリンズの一部やカリブの島、沖縄などにも特殊な空間が
存在する。といえばニュアンスがわかっていただけると思う。『ナイアガラ・ムーン』も『サンセット・ギャング』も、
ザ・バンドもマーティン・デニーもみんなそうだ。でも、日本の中のそういった空間が一番魔力を持っているのだ、
と最近気がつき始めた次第だ。
前にも言っていた、日本とアメリカの境に宙ぶらりんしている気分というのは、この空間にいるせいだったのだ。
このようにろくなことしか僕は書くことがないのだが、ひとつマジなジョークを言う。僕はこれからチョップという種類
の音楽を冗談でやるつもりだ。ミカ・バンドが冗談から真剣になったようなことが起こらないとも限らない。チョップを
誌上に明かすのはこれが初めてなので、とても興奮する。これは少なからず自信があるのだ。少なくとも人を
煙に巻くことにかけては―。
この際、大滝詠一、加藤和彦、久保田真琴諸君も僕はチョップだと思う。いや、ここまできたらクリエーションにもがんばってもらいたい。チョップについてはもうこれ以上言うまい、僕の次回作で謎を明かにしよう。
君、チョップを知ってる? エッ? 知らないの! いや実を言うとチョップっていうのは―。