
The Show Must Go On
究極のネタばれになる可能性があります。セカンドシーズン最終回を未見の方は、絶対に読まないでください
ビッグ・オーの最終回公開後、予想通りというか、最終回の表現に賛否両論がありました。
大別して、公式サイト等では批判的な意見が多かったように思います。
管理者が考えますに、批判の中にも色々あって、自分の想像と違っていたとか、まったく理解できないとか、批判の段階が存在していると思います。
エヴァに似ているとか、それに類する終わり方、という意見も多かったと思います。
ここで考えたいのは、ビッグ・オーはファーストシーズンの受け入れられ方として、日本よりも海外で人気を得たということです。
日本人には至極難解だとしても、欧米人にはすんなりと受け入れられている。
そこには、民族性の違いと、ビッグ・オーの物語が間接的に現す世界観があるのです。
注・管理者はクリスチャンじゃありません。坊主の血を引く男です。
注2・途中で『そんなことないよ』という意見は充分出てくると思います。とりあえず、最後まで読んでくだされ。
注3・このページは概念的な説明が中心です。配役のモデル等の記載はありません。
ビッグ・オーの設定として、ファーストシーズンとセカンドシーズンの背景は、、少し変化しているようです。
ファーストシーズンの続編として製作されていたものの、ファーストは初期設定の凝縮版として物語が確立しているので、やはり、純粋な初期からの結末、とは違うと、皆さん感じているのではないでしょうか。
そうは言うものの、CASTという名詞には、鋳造、配役という意味がありますし、当初からの根底は変ってないと思います。
Act:25 The War of the Paradigm City
この回での、ロジャー・スミスとゴードン・ローズウォーターの会話に、謎解きのヒントがかなり提示されています。
また、
Act:17
Leviathan Act:22 Hydra
において登場しているメガワームの名前の意味も、かなり重要です。
ビッグ・オーの世界観が、旧約聖書の世界に近いことは、以前から気付いていました。
頻繁に、『神』という言葉、セリフ、現すもの、が登場しています。よく考えれば、それは東洋の神という概念ではなく、西洋的な神の概念です。こういった設定は、日本のアニメとしては非常に珍しいものです。
リヴァイアサン、ハイドラ(ヒドラ)という名前は、神話や聖書に登場する神の創った怪物。また、悪魔と化した怪物として登場します。単なる名前だけ借りたものではないはずです。
Paradigm City
この街の名前がパラダイム、というのも注目すべき点です。
当然、パラダイムは、Paradise(パラダイス)、あるいはParadox(パラドックス)からの言葉。
このパラダイスに、The をつければ、エデンの園という意味になります。
Act25は、当然 The をつけています。よく題名を見れば、書頭にも The がある訳で、パラダイム・シティにあえて The をつけ、『エデンの園での戦争』と海外では理解するでしょう。
Act26にかけて、天に照明装置が登場して、下界が箱庭的存在であると表現します。
神(または類するもの)が作った街、という設定がここでなされています。
ゴードン・ローズウォーターの存在はどうでしょうか。
Act25で、腐ったトマト、つまり遺伝子操作による人間の創造という事実が提示されます。
ヴェラやアレックスを含め、ゴードンの意思により大勢の人間が創造された、ということは、ゴードンに箱舟伝説の、ノアの姿が重なります。
旧約聖書では、エデンの園を追放されたアダムの子孫が堕落し、神が人を創ったことを後悔して、すべての命を地上からぬぐい去ろうとします。
その中、神に従う無垢な人、ノアが神と契約し、箱舟を作ります。このあたりのくだりは、皆さんご存知だと思います。
その後、ノアが新しいアダム(3人の息子の子孫が世界中に広まる)として、再び人間の父親となるわけです。
ここで注目したいのは、箱舟から出たノアは、農夫になるということです。
ゴードンも農夫になっています。日本人はノアの箱舟は知っていても、その後を知る人間は少ないはずです。
また、ノアとの契約の中で、神は雲の中にわたしの虹を置く、としています。
雲の中に虹が現れると、生きものとの間で契約したことを思い出すと。
その契約とは、肉あるものすべてを滅ぼすことは二度としない、というものです。
私は、雲の中から照明の舞台装置が登場した時、すぐにそれを思い出しました。
虹、というものではありませんが、雲の中にあるということ。人間を滅ぼすことはしないという契約、しかし、滅ぼさないだけで、何度もやりなおしているのではないか。そう思ったのです。
箱舟伝説の中で、箱舟から最初に出た動物は、カラスです。
また、ノアの息子の話として、
ノアは農夫となり、ぶどう畑を作ります。ある時、三人の息子のうちのひとりが、裸で泥酔しているノアを見て、二人の兄にそれを知らせます。二人の兄はノアの裸を見たくなくてそれを隠します。
ノアはそれを聞いて、兄に知らせて自分は何もしなかった息子に対し、呪われて奴隷となり、兄に仕えろと命じます。そのくだりの後、ノアの死亡記載に聖書はなります。
ユニオンとして存在しているモノが、その呪われた息子の子孫、という設定も、充分考えられます。
Act25で、ゴードンが『ユニオンという存在は最初からなかったのかもしれない。いやなかった』というと、攻撃がなくなり、雲の中に装置が登場します。
父であるゴードンがそう判断したため、ユニオンという存在が消えた、ともいえるでしょう。
神と呼ばれるもの、あるいは世界をつかさどるもの、と呼ばれるものを知っていたのは、ゴードンのみであったと思います。
それは、ゴードンの書いた本、黙示録にも似た世界の本は、ユニオンの攻撃と混沌を予測していたかのような記述。ゴードンは、自分で書いたものではなく、意思により書かされたもの、と言います。
厳密には、知るというよりは、感じていた、ということでしょう。
そして、メモリーを持っていた時のロジャーに、ネゴシエイトの依頼をするのです。
ここで間違えたくないのは、エンジェルが神ではないということです。
エンジェルの存在は、非常に難しいものだと思います。聖書の世界からすると、エンジェルの存在はかなり異質になってしまいますが、その記述は後にします。
聖書でいうことろの預言者は、よく聞く予言者とは違います。
神の言葉を広く伝えるもの。それが預言者です。
当然、ビッグ・イヤーがそれに当たるでしょう。Act26の冒頭、ビッグ・イヤーが実はアンドロイドに類するもので、未来の新聞を読んでいたという事実が提示されます。
さすがに、これには腰を抜かしました(笑)。
メモリーという存在を説明するには、本編では少し時間が足りなかったのかもしれません。
ダストンのメモリーとか、パラダイム・シティに住む人間、個々のメモリーに対するモノ、それは植え付けられたものだったのか、演じるために必要最低限のものだったのか。40年前以前のメモリーを取り戻した人間の顛末を考えると、ちょっち判断材料が少ないです。これは本編を見直して、考えたいと思います。
Atc17のリヴァイアサンは、元々神話の世界の怪物です。
旧約聖書では、ヨブ記という記述で登場します。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/
↑こちらでヨブ記の概略がわかります。サイト『聖書の呼ぶ声』。
ヨブ記は聖書の中でも特異の物語で、神に従順な人間に対し、神と悪魔が賭けをして、その人間が神を恨むかどうか、それを見るために、さまざまな災厄を与えます。
最初のうちは神に従順でも、ひどい皮膚病(注目点・シュバルツの概観と重なります)にかかり、神を恨みはじめます。
それを心配した友人3人との会話と、それを聞いた第3者の言葉、そして最後に神との会話になります。
その神との会話で、神がこのような怪物を創った、という代表でリバイアサンの記述があります。
リヴァイアサンは、元々別の神話に登場する怪物。
当然、メガワームの名前になるくらいですから、重要な位置を持つことに間違いありません。
公式HPでは、リヴァイアサンに関しては、書籍の名前として紹介されていますが、元々その本はこのヨブ記を参考として書かれています。
Act25で、シュバルツは空の舞台装置を見て、天にいるのは神ではなかったと嘆きます。
神との対話という点で、シュバルツは聖書のヨブ的な意味合いを持っていた、と判断しています。
ただ、ロジャー・スミスの存在にもかなりシンクロしているので、一度お読みになることをお勧めします。
ビッグ・オーで、徹底していたのは、ロジャーが黒、アレックスが白という、色の表現です。
神たろうとするアレックスが白、というのは理解できます。
反面の黒として、ロジャー・スミスが設定されていたことは、注目すべき点ですね。
光と影の関係で、光が正ではないという異質の意味。
人間が神たろうとする意識の表れとして、白を選んだのではないでしょうか。
黒というのは、何者にも染まらないという意味も含んでいると思います。
エンジェルの存在は、非常に難しいですね。
旧約聖書の世界観がビッグ・オーにあるとすれば、
『鳥へと進化する以前の獣』という表現は異質になります。
進化という概念は、旧約聖書にはありません。神がすべてそのものとして創造しているからです。
ですが近年では、『真の創造とは、神の促する進化である』と考える学説もあり、簡単に否定はできません。
ただ、エンジェル、つまり天使という概念は存在しているので、翼をもがれた天使、という意味として考えるのが正しいと思います。
『鳥へと進化する以前の獣』
という言葉に、意思の力という意味もあるかもしれません。自らの意思により行動できる知性を持った動物。人間は獣ではない、ということ。
それを語るロジャーの言葉によって、背中のアザが覚醒するのも注目点。 キーワードの設定がされていたということ。
パラダイム・シティの地下にあるもの、というか、今までに存在していた世界の上に、現在の世界が存在している。地下の装置でエンジェルが選択の上に、その世界をどうするか決める。
エンジェルを天使そのもの、あるいは神の使いとして考えれば、人ではない、 世界をつかさどる何か、ということにもあるのかもしれません。
ゴードンがロジャーに依頼したのは、世界を作り上げている存在との交渉。ビック・ビヌスの覚醒はエンジェルの選択ですから、結局、異質な存在を許していた存在、エンジェルをメモリーとした存在への交渉となるのです。
最後、ビッグ・オーとビッグ・ビヌスが交差して元に戻る、という終わり方ですが、存在の交差ということでは、Act25で、ロジャーがエンジェルに会う前に自分と交差するシーンが描かれています。
色々な世界に、それぞれの役割を演じているロジャー・スミスがいて、 それぞれが交差し、互いに影響するということなのではないでしょうか。
そのやり方は、昔から存在している考え方です(参照・ビクルス/時空を越えた戦士)。
エンジェルの選択によって世界が消えようとしていて、そこでロジャーが交渉する。
最後、ロジャーに肩を叩かれるエンジェルは、異世界にいたエンジェル。
各々の時間をつないでいる存在としても、見れます。
メモリーを求めるのはナンセンス、と、冒頭でビッグ・イヤーが言います。
しかし、ノーマンは、メモリーは人の形をしたものの中にある、と、ドロシーが覚醒した時に言います。
パラダイム・シティに存在していた演じる役者としてのモノが、それぞれの意思により行動をはじめたため、その世界を作っていた設定が違うものになって行く。そんな感じがします。
これは、ゴードンのセリフによってユニオンが消えたことにも該当するでしょう。
結末を自分たちで決めさせ、その結果いかんで世界をどうするか決める。
その最終選択が、その世界に存在するエンジェル、とも言えます。
ドロシーの存在に関しては、かなり流動的のため、ここでは何ともいえません。
もしかしたら、DVD等で別の話になっていたりして、という可能性が捨てきれないからです。
ドロシーがビッグ・ビヌスの存在を何で知っていたの?、等の疑問は、謎のままでいいのかもしれません。
そうは言うものの、元々アンドロイドは人間が自分たちの姿に似せて作ったものですし、ドロシーは極度に表情が人間に近く作られています。その意味では、神が自らに似せて人間を作ったという創世記の記述を踏んでいます。
Act23で、アンドロイドの自我の目覚め的な演出がありますし、そういう意味ではSFの王道なのかもしれませんね。 『私だって嘘はつけるもの』ってセリフは、結構強烈です。
Act25『オイディプス』…ギリシャ神話をモチーフとしたソポクレスの<オイディプス王>を出所とした父を殺して自分の母を父から奪うという潜在的願望はオイディプス(エディプス)コンプレックスという言葉で有名ですね。
アレックスはゴードンを抹殺しようとしたわけでそれを<オイディプス王>になぞったと言う事でしょうね(ギブスンさんより情報ご提供・ありがとうございました)。
とりとめがありませんが、これが、現段階での考えです。
神(類するもの)が作り上げた人間の演じる舞台(パラダイム・シティ=エデンの園)で、人間の祖が(ノア=ゴードン・ローズウォーター)子孫を増やし、再び神が人間を滅ぼすことがないという契約の元に、神になろうとした人間が(アレックス)登場した段階で、神が再び世界を最初に戻す、と考えます。
ロジャーはどの世界にいても、ドミュナスであるロジャー・スミスであり、それぞれがつながって影響を与え続けている。
という感じです。 Act14で、ドロシーがロジャーは役者ではないといい、君がその名を呼ぶ限り、私はロジャー・スミスなのだ、って経過があるので、ドロシーとロジャーはワンセットなのかもしれません。Act26の最後のシーンが、それにあたりますね。
小中氏はHPで、『ロジャーは最初、ヨーゼフ・Kのような…』と、最終回後にUpされていました。
カフカの小説に登場する、人物です。興味がありましたら、ご一読ください。日常の中の非条理な存在は、人間そのものという気がします。
私なりの解釈ですので、ビッグ・オーはご覧になった皆さんそれぞれに解釈があると思います。
ただ、考えもなしにただ批判するのは、私は間違いだと思います。
エヴァで綾波が『肉きらいだもの』って言った瞬間に、聖書の神と人間の契約を思い出した方なら、ご理解していただけると思います。あの時も、考えなしに批判する人、多かったですからね。
何かに似ている、と言うのは誰でも言えます。どこがどういう風に似ていたとか、比較がすっぽり抜け落ちた批判は意味がありません。
色々考えること、またそれぞれの解釈によって、いく通りの世界が発生するんですから、それこそ、作品が後年に生きるんだと思います。
最初から、面白くないモノを作ろうとする人間はいませんよ。