
☆図書館にでも行きましょうか。☆
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最近ロクに更新していないので、又新たなコンテンツを立ち上げたりして。
万年金欠な小手鞠萌はよく図書館に行く訳ですが、そこでよく借りる本の中でも、面白かったり資料としてなかなか良い物を紹介するコーナーです(安上がり)。
因みに基本は“十九世紀”。本物のメイドさんが生きていた時代っすね。でも読んでいる本、かなり偏りあり過ぎです。しかも実はあんまり小説読まない事、バレバレ。大層なもんでは無いけれど、ある意味“裏ヴィクトリアン・ガイド”かも(^_^;)。
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第三十回(2004.08.03現在)
ボニー・G.スミス、井上尭裕+飯泉千種/訳『有閑階級の女性たち フランスブルジョア女性の心象世界』
法政大学出版局(りぶらりあ選書)
北フランスのノール県のブルジョア女性史に焦点を当て、十九世紀以降の生活に大きな変化を見せたその世界を人類学、精神分析学、言語学、神話学など多様な手法を駆使して分析し解き明かした書籍。
ノール県はぶっちゃけ『田舎』で、ノール県の中産階級の淑女達は、信仰深さと共に非常に保守的であり、その事が彼女達の言動に大きな影響を与えている事が分かります。この中では、彼女達が独自の『自分達の世界』を確立した事が、後にフェミニズムに影響を与えたという事になっていますが……でも足引っ張ってる様にしか見えないんですけど。『女性たちのアイルランド』の後では、少々アレですが。
メイドさん関係も『U 家庭生活』の『4 家庭生活――生殖のレトリック』の中で、少しだけ取り上げています。その部分の殆どを、長々となりますが引用します。
………………
家事使用人のシステムは十九世紀に急速に発達したが、このシステムもまた、――あるいは、むしろこのシステムこそが、とりわけ主婦の存在を喚起する能力を獲得したのであった。それは、以前、ブルジョアの所帯で手伝いを雇うことに決めた場合の功利的な関心と、全く対照的である。たとえば一八四〇年代に、まだ必要に応じて使用人を雇っていた女性の例として、S夫人の場合をあげることができる。彼女は子供が一人あったが、住み込みの召使は一人で、その仕事を補助するために、通いの縫い子、洗濯婦、料理人などを使い、さらに晩餐会など、必要が生じた場合には給仕婦を雇った。ところが十九世紀末には、数人の家事使用人を置くのが一般的となった。通いの使用人が家庭に取り込まれ、また、普通の料理人や召使だけではなく、それに加えて、住み込みの庭師、小間使い、下男、運転手などがその数に含まれるようになったからである。この家事使用人の専業化は、産業社会における専業化をなぞっているのだと論じる人もあるだろうが、しかし別の要因も作用していたと思われる。大勢の家事使用人は、女主人のイメージを拡大して提供するものであった。彼女は、あらゆる場所に同時にいて、家族のさまざまな問題に気を配っているのである。
忠実な召使は、いろいろな場合に母親の代理をした。子供を学校につれて行き、着物を着せ、入浴させ、食事をあたえ、看病をした。この密接な関係は次の世代に影響を与えたから、道徳性のすぐれた使用人を見つけることは重要であった。また召使たちはそれぞれに料理、掃除、縫い物、洗濯、アイロン掛けなどの機能を果たしたから、道徳性と共に、ある程度の機敏さ、賢さ、器用さをもつことも、召使を選ぶ動機となった。ところが家事の適切な実行は(または不適切な実行も)、主婦のイメージを反映するものであり、その評決を決定するものであったから、こうした資質のどれもが、二重の意味でぜひとも必要とされたのである。料理や裁縫や掃除といった、必要で実質的な仕事と思われるような領域においてさえも、召使たちは家庭の象徴体系を表現しており、家事の一つ一つが、機能的目的と隠喩的目的に同時に役立つことによって、二重の意味を伝えていた。料理、裁縫、掃除は、家族に食物をあたえ、衣服を着せ、衛生を保ったが、それとともに、磨き上げられた家具、ゼリーのかかった鮭、蝶結びのリボン、フラウンス、プリーツといった家庭生活の象徴をも作り出す。ブルジョア女性は、召使の手助けを借りて、彼女の家庭と彼女自身を整え、磨き、飾ることができた。装飾の一つ一つが女性の存在を表現し、それを高める働きをした。こうして召使たちは、家庭世界の中心を占める女性の姿に注意を集中すべく手助けしたのである。
召使と女主人の間のこの相互関係、共同関係は、労働契約において雇用者と被雇用者とを結びつけている金銭的なきずなとは全く異なっており、伝統的な「道徳経済(モラル・エコノミー)」を家庭のなかで持続させているものであった。家庭の労働=生活の背後には、幾世紀もの伝統が横たわっていた。そこでの関係は、対等な者たちのあいだでの契約の関係ではなく、全体の善をめざす相互依存関係であった。一個人の頭と手がその人間の利益のため一緒に働くように、召使と女主人は、彼女らがその構成員である家族の福利のために協同するのであった。二人の間の契約は、一定時間の労働と賃金の支払いで尽きてしまうのではなく、全体の福利の達成によってのみ終結するのであったが、このような終点は二人の関係をほとんど無限のものにしていた。こうしたきずなのもっていた個人的な性格が、時には、この権威的な対人構造のもつ最悪の特徴を和らげることもあった。しかし、契約的労働の魅力と対抗させられるようになったとき、この種の家族的関係は「召使問題」に転化した。
このような召使の女主人への入り込みは、彼女たちの相互関係を強化するものであったが、他の階層秩序的(ハイアラルキカル)な社会組織の型にも典型的に見ることのできるものであった。子供は両親に含み込まれ、両親を反映し、望むべくは両親の栄誉となるべきものであったが、それは、まさに君主制国家において、住民が目上の者の目的に奉仕し、結局は君主の目的に奉仕することになるのと同じであった。キリスト教の教義においては、人間はその地位に応じて、それにふさわしい才能を与えられているのだが、その才能は、階層の連鎖の頂点に立つ父なる神の栄光をいやますがために、用いられるべきものであった。この意味で、各個人は上位者とつながってはいたが、上位者と同等になることはできなかった。召使はブルジョア女性の豪華さに影響を及ぼすが、家族構成員の組織を決定づけている質的な差異によって、決して女主人に対抗することはできなかった。
理想においてもまた実際においても、召使との関係は密接であったから、ノール県の女性は召使の選択に強い関心をもっていた。「召使問題」は二十世紀まで起きなかったが、適当な召使はかなりまれであったから、際限なく探し求めなければならなかった。都市住民は衰弱していると信じられていたので、ノール県の家庭は、田舎の縁者たちに、健康で頑丈で品行方正で扱いやすい召使を探してくれるように頼んで、ほとんど半狂乱の手紙を書き送った。あるいは、彼女らは、召使や、とりわけいつでも見つけるのが難しかった乳母を、互いに交換しようとした。(中略)しかし、いったん未婚の母を雇うことに成功すると、その道徳性は、他のすべての召使についてと同じように、ブルジョア女性の責任となった。
家事使用人たちを子細に注意深く監視する責任は、家事の手引書にも家庭小説にも書かれている。とりわけ小説家たちは、召使たちにたいする義務を怠った若い妻に降りかかる災難の物語で、この責任の緊要性を強調した。子供の致命的な病気とか、家庭を覆すような大混乱とか、若い召使が罪に走るとか、すべてが監視の欠如から起こり得るのであった。あらゆる史料が示しているように、ノール県の女性たちはこの任務を几帳面に実行した。彼女たちは、たとえばリール市での場合のように、女子使用人のためのお祈りのグループを組織した。あるいは、もっと効果的には、使用人の子供に教育を授けたり、衣服を与えたり、また忠実な召使いを看護したり、埋葬したりして、使用人たちを家族に縛りつけようとした。その代わりに、召使たちは終わりのない仕事を繰り返し、厳格な行動規範にしたがって行動することを期待された。
召使たちの行動に厳しい注意が払われた理由は、それが家庭の順調な機能にたいして現実的な脅威となったという以外のところにあった。召使が伝える女主人についてのメッセージは重要な意味内容をもっていたから、そのために、召使の選択には十分な注意が払われなければならなかったのである。召使たちは、まず何よりも「道徳性」の表示を通じて、つまり性の抑制を通じて、家庭生活の生殖のモティーフを永続させていた。彼女らは、否定が肯定を定義づけるという意味で、生殖能力をもつ女性の偏在的な定義であった。召使は多くの領域で女主人に代わることができたが、もっぱらその家の女主人の領域である仕事が一つだけあった。彼女だけが嫡出の相続人を再生産することができたからである。労働に精を出す召使たちと彼女らにかしずかれる怠け者の上流婦人という図は、こうして彼女のもつ生殖機能の輝かしさを表現し、それを強化するものであった。彼女は生殖のためにのみ存在し、彼女の反対の自己、つまり非生殖的で生産的な自己は、他人のうちに存在した。家事使用人たちは、その性的、生殖的領域における不能を含め、そのあらゆる活動によって、彼女の存在を投影していた。召使は、結局のところ、単に機能的な存在ではなかった。それは生殖の否定形の隠喩として機能していた。(中略)
召使もまた、この入り組んだ女性の隠喩に一役買っていた。召使は、貴族の従者のように、女性の存在を拡大するものであった。女性の命令はもとより、その気紛れさにさえ従うことによって、召使たちは、女性の近田を実証する役割を果たしていた。しかし、逆に言えば、召使たちは、女性の脆弱性を、繰り返し証言しているものでもあった。召使たちは、日常生活の卑賎な仕事を行い、それによって、女性のきゃしゃさを表現していた。彼女らは汚れた子供に触るにはあまりに上品であったが、おやすみのキスをしてやることはできたのである。他の召使たちは、女性が手を汚さなくても花が摘めるように、庭を管理していた。あるいは、止むを得ない場合には、女性は、手を土で汚すよりも、造花をこしらえた。ノール県では、ブルジョア女性は、にわとりやローストや野菜などを自分の手で料理することを避けた。しかし、果物のジャムやリキュールを作る繊細な作業は、自分自身で監督した、そして、もし本当に料理に得手があったとして、彼女が得手であったのは、手の込んだきゃしゃなデザートを飾りつけることだった。(『U 家庭生活』の『4 家庭生活――生殖のレトリック』より)
………………
十九世紀にかかわるあらゆる事柄と同様に、この本で描かれたブルジョア女性は、二十世紀の戦争の恐怖のなかで消滅してしまった。北フランスの各地は、他の土地よりもひどい被害を二度の大戦によってこうむった。この恐ろしい戦争は、もっとも簡単な事柄からもっとも重大な事柄まで、何もかも変えてしまった。たとえば、一方では戦争は深刻な家事使用人不足を引き起こした。昔の奉公人が次第に少なくなったからである。ブルジョア家庭の複雑な世界は、労働力としても、あるいはその象徴的な役割によっても、家事使用人たちに依存していた。ところが、世界大戦は、とくに大・中ブルジョアジーの家庭の主婦の生活に大変動を引き起こした。一九八〇年には、ブルジョア女性たちは自分でジュースを絞り、家庭の食事を作っている。これは彼女らの祖先には考えられないことだった。料理女中がまだ働いている家庭でも、女中は、ときおり、冷たい夕食を残して帰ってしまう。家族は、それを台所のテーブルで銀の食器を使って食べるのである。(『フランス語版へのあとがき』より)
………………
メイドさんと女主人との関係の一部がよく分かります。メイドさんはあくまでも日影の存在、華である奥方の引き立て役兼裏方という訳ですね。
E・バダンテール、鈴木晶/訳『母性という神話』筑摩書房(筑摩叢書)
本書は一九八〇年に出版されるや大論議を呼んだ、フェミニズム歴史学の良書の一冊。“母性愛”とは“本能”では無く、母親と子供との日常的な触れ合いの中で育まれる“愛情”であり、それを“本能”と呼ぶのは父権社会のイデオロギーであり、近代が作り上げた“幻想”であると語る本書は、“母性本能”の神話性を論証し、母親と子供の関係、そして女性のあり方に再考を促した問題定義の書物です。
著者はフランスのフェミニスト。十八世紀以前と十八世紀、十九世紀、そして二十世紀の“母性”に付いてを、フランスにおける乳母や母乳による生育の歴史から踏まえて語っています。端的に言えば、近代になって『子供は、長期的に見れば役に立つ』事が判明して以来、それまでは顧みられる事の無かった“子供”の存在が、さも大切なものとして扱われる様になったが、それも結局は親の側、特に支配的な父権社会の代理としての父親の側の思惑に沿う形での変化でしか無く、その全てを女性の負担として押し付けたのが、現在にまで至るという訳です。
近代の女性、特に上流階級と中産階級の女性がどの様なものか、母親の概念の面から分かる一冊。メイドさんに直接関係する訳ではありませんが、幾つか引用します。
………………
このプロスト・ド・ロワイエのじつに手きびしい批判は、十八世紀末のモラリストたちによって追認されている。だれもが皮肉をまじえて強調している――たいていの人は、女中や、馬野世話をする馬丁、ましてや食事を作る料理人を選ぶときには、乳母を選ぶときよりも注意深く、いろいろと注文する。最初のこのいい加減さから、当然、里子に出された赤ん坊の悲劇的な状況が生じる。(『第一部 愛の不在』の『第三章 母親の無関心』より)
………………
(中略、バルザックの『二人の若妻の手記』から引用して)ルネは自分の権利を人に譲ったりしない。というのも彼女の考えでは、母性本能だけがこうした仕事をまちがいなく導く案内人であり、この真の聖職こそ女の義務であり存在理由なのである。だからこの仕事を他人にまかせる女は悪い母親なのである――「召使いが何人いようと、イギリス人の女中がいようと、母親は自分で戦場に立たなくてはならないのです。」(『第三部 強いられた愛』の『第一章 ルソーから受け継いだ道徳論あるいは「ソフィー、その娘たち、孫娘たち」』より)
………………
前者は十八世紀末の上流階級の、後者は十九世紀頃の中産階級の母親が子供に対してどの様な扱いをしてきたか、端的にですが分かる文章であります。
小倉利丸+大橋由香子/編著『働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?!』青弓社
衝撃的な題名ですが、寧ろ副題が内容を示している書籍。『女性の解放=賃労働への参加、家事・育児の社会化』という古典的なフェミニズムが既に時代遅れと化してきている昨今、その事に付いてを様々なフェミニスト達との対談で語っています。
その中で、メイドさん関連のネタがあったので引用します。
………………
しかし、もともと性別分業を前提としている企業社会で、家庭や「女」に支えられている「一人前」の「男」に伍して働くということは、その「女」自身がもうひとりの「女」――自分の母親あるいはお手伝いさん等――を家庭に抱え込むか、あるいは家庭そのものを全く放棄して、まさしく「ひとり身」として働き続けるか、他に術はない。(『「女の経済的自立」「主婦」「母」、それぞれの思想をどう超えるか』より)
………………
江原 だから現在主婦がやっている活動を家事使用人というかたちで実現するためには、複数の家事使用人が必要だったんですね。イギリスの貴族なんかは必ずそうですよね。メイド、コック、庭師、乳母の他に必ず家政婦というか、使用人を統率する女性を雇っていたわけです。その人がすべての家事の遂行をみとどけて家政全般をとりしきるわけね。そういう仕事をする女性は非常に地位も高かったわけです。だから、現在主婦のやっている仕事はものすごく複雑な活動ですね。家事労働を他人に代行させようとすると誰か、全面的に責任を負って、まかせられる人が必要になってしまう。そこがものすごくむつかしいのね。いわば精神面をふくむ労働なんですね。(『女性と労働のねじれた関係』より)
………………
ここで言う『家政婦』とは『メイド頭』と訳される『ハウスキーパー』の訳語かと。だけどここで語られているのはでっかい『お屋敷』で雇われている使用人の事な訳で、都会のロンドンのフラットで一人で何もかもやらされた上に安月給で女性で下層階級出で給金貰っている『労働者』なのに『家事』をしているが故に一般的な『労働者』とは見なされなかった不遇の身の上の雑役メイドとはちと違う気がしますが。フェミニストはこういうブルーカラーの女性の事はどー思っているんでしょうかね? かつてのサフラジェットの如く、家事をメイドさん任せにしてフェミニズムを行うんでしょうか。
第二十九回(2004.07.26現在)
川越修+姫岡とし子+原田一美+若原憲和/編著
『近代を生きる女たち 一九世紀ドイツ社会史を読む』未來社
副題を見れば分かる通り、十九世紀から二十世紀初頭に掛けてのドイツの市民層・労働者層の女性を扱った書籍。当時の女性像から始まり、二つの階級の女性達の生活ぶりを十九世紀前半と十九世紀後半・二十世紀初頭の二つに分けて論じています。
ドイツにおけるメイドさん資料としては最適と思われる一冊。様々な文献を元に、十九世紀の女性の生活ぶりを炙り出していて、とても為になります。特に雑誌や新聞に投稿されたメイドさんの意見や、メイドさん同士の手紙のやり取りは、彼女達がどの様に生活していたかが伺えて面白いです。メイドさんは『下がり天井(妖怪に非ず)』という台所にある穴蔵みたいな所で寝ていたり、雇用主から虐待されていたり、手込めにされそうになったり、嘘を吐かれ酷使された上に給金を貰えないばかりか自分がその家の息子から金を盗まれた挙げ句泥棒扱いされ画策により訴えられたり、苦痛に耐えかねて自殺してしまったりと、これを見る限りでは酷い目にあってばかりいますね。
雇用者達は、自身の要求が満たされるだけでなく、行儀作法まで事細かに指示する事を望んでいた様で、十九世紀後半には、使用人組合の機関紙に掲載されたメイドさんの心得のリストが載っています。
………………
1 朝は、目覚まし時計によってきちんと六時に起き、六時十五分には家の中の仕事に取りかかること。
2 主人に対しては、つねに愛想のいい、礼儀正しい態度を示すこと。
3 衣服はつねに清潔できちんとしていること。
4 石炭、ガス、石油は、つねに節約すること。
5 家具、ドア、絵画などは、つねに慎重に取り扱うこと。家具を蹴ってはならない。ベランダに入る時には充分な敷物を敷いてから入ること。けっして長靴や靴のままで入ってはならない。ドアの開け閉めは、必ずノブを使うこと。ドアそのものに指を触れることは、絶対にしてはならない。
6 つねに電話に注意し、主人の留守の間に受けた知らせはすべて、すぐにメモ帳に書き留め、主人が帰ったら直ちにメモを渡すこと。
7 主人の留守中には、どんな物も手渡したり、お金や請求書の代金などを支払ってはならない。文書や電話で通知を受けたと申し立てても、支払ってはならない。これに関する要求はすべて拒否し、主人がいるときにもう一度来るように頼むこと。
8 買物や使い走りは、す早く済ませること。家や近所などでの噂話は、絶対にしてはならない。
9 家の中の物はすべて、必ずもとあったところにきちんと戻すこと。
10 真鍮製の物やドアのノブなどの掃除は、最新の注意を払って行うこと。また仕事を少なくするために、掃除されたものは、できるだけきれいに保つこと。
11 主人が留守で、監視の目がなくても仕事を続け、片づけること。仕事中にぼんやりしたり、窓から外を眺めたり、本や雑誌を読んだり、手紙を書いたりすることは、絶対してはならない。
12 忘れることは、故意であろうとなかろうと、あってはならない。メモをするなどして、そういうことが起こらないようにすること。
13 つまみ食いや嘘は、絶対にあってはならない。つねに誠実さと真実を愛する心が要求される。……
15 食事はけっして惜しげもなく捨ててはならない。食べられるものは必ず最後まで食べること。
15a 外出日には、出かけるときにきちんと告げ、帰宅時には、庭の門と家のドアに鍵をかけることを忘れてはならない。……
17 トイレの使用は、最小限にとどめること。
………………
色々と細けぇなぁ……。それにしても、もうこの頃には、目覚まし時計があったんですね。しっかし、家具蹴るんだね、メイドさん。
アンジェラ・ホールズワース/著、石山鈴子+加地永都子/訳
『人形の家を出た女たち 20世紀イギリス女性の生活と文化』新宿書房
著者はBBCの放送記者でシニア・プロデューサー。本書はイギリスにおける女性の二十世紀初頭から戦後までの歴史を、八つに章立てて論じています。
近代において、女性がどの様に扱われて来たのかの一片が分かる一冊。特に二つの大戦が女性の生活に影響を与えた事がよく分かります。
メイドさん関係は主に『第1章 家庭の中で――家を守る女性』と『第3章 女性にふさわしい仕事とは――働く女性たち』で取り上げられています。視覚的な資料も豊富で、『メイドに代わってこれだけの仕事をこなせますということを示した、戦前のクレンザーの広告』とか、なかなか良い感じです。
………………
この物語が始まる二〇世紀初頭には、これが確固とした社会的伝統となっていた。労働者階級の既婚女性は、大家族や毎日の果てしない家事に追われていて、必然的に家庭に縛られた。既婚女性でも働くことが当たり前の地域(たとえば、北西部の紡績工場はその一例だ)を除くと、賃金労働に従事しなければならない少数の女性は気の毒な存在だった。ノッティングガム製のレースのカーテンの奥で、召使いに命令し子どもをしつける深窓の中産階級女性も、庇護されていることに変わりはなかった。家の規模はピンからキリまでいろいろで、雑役夫や下女一人だけの家もあれば、執事、料理人、乳母、小間使い、台所の下働き、それに「仲働き」まですべてを抱える家もあった。友達や親戚を訪ねて外出することもあったが、買い物は地元の商人がご用聞きにやってきて、家ですませることができた。家で生まれ、家から嫁ぎ、家の中で子どもを育て、家で死を迎えた。
ミルトル・レーンは一八九九年、「裕福な」家庭の子として生まれた。家族は両親と兄弟が三人で、ベッドルームが一〇室もあるサフォークの広い家に住んでいた。住み込みの召使いが五人いたほか、「外回り」といわれる庭師二人と御者がいた。メイドは夜明けから夜八時まで働きづめで、八時以降も主人たちから温かい飲み物が欲しいと言われたときのために、一人が当直に当たっていた。家族は三度の食事をとり、さらに、ビスケットでお茶を飲むゆとりがあった。ミルトルの母親は早起きで、六時一五分になっても上の階のメイドの部屋で物音がしないと、天井を突いた。母親は自分自身で家事をすることはなかったが、メイドがきちんと仕事をしているかどうか始終目を光らせていた。母親は自分の家だけではなく村中にまで目を光らせ、午後になるとほとんど毎日のように村野家々を点検して回った。
二〇世紀初頭にこれほどぜいたくな暮しをしていた家族の数は、実際よりも誇張されているようだ。たいていは、召使い一人の家族が一般的で、掃除にしても子どもの世話にしても、やらなければならないことは山ほどあった。ことに、召使いを大勢抱える家と同じようにしようと思えば、なおさらだった。田舎の牧師の津まあ、この世で最も辛い立場にあった。はるかに金持ちの地主の妻なら多くの召使いを使って完璧に切り盛りするような世帯をたった一人でこなさなければならないうえ、教区内で無料奉仕の責務をこなし、そのうえ、ただっぴろい家をわずかな家系でやりくりしなければならなかったからだ。一九〇〇年に生まれたフランク・ダッシュの生家はそうした家だった。ひと言も愚痴をこぼさず休みなく立ち働く母親は、フランクにとって尊敬の的だった。お墓にはアーノルド・シルコックの詩「バース・オア・ワース(詩か、敗北か)」を刻んでちょうだいね、と母親は彼に言った。
ここに眠っているのは、いつもくたびれた貧しい女
手伝いも雇えぬ家に暮らしていた
いまわの際にこう言った。「友よ、今から旅立ちます
洗濯も掃除も縫い物もしなくていいところへ
でも、すべては私の願い
食事もしないけれど、皿洗いもない
いつも聖歌が大きく鳴り響くところへ私は参ります
でも、声が出ないので、歌う心配はいらないわ
どうぞ、今、嘆くのはやめて、決して嘆かないで
私は永遠に何もしなくていいんですもの」
(中略、第一次世界大戦中)中産階級の女性にとっても、家庭生活は混乱状態だった。召使いたちは工場や軍需作業に吸い寄せられた。賃金はよかったし、勤務時間が短く、自由時間はまるまる自分のために使えたからだ。このため、自分では手を汚したことのなかった女性も、自分たちと召使いたちの世界とを隔ててきた緑のラシャ・カーテン越しに現実を見据えることを余儀なくされ、行き届いた手入れをして広大な屋敷を維持することができないことを知った。召使いたちが軍需景気を素早く嗅ぎ取って去っていくと、彼女のたちの多くは住み慣れた家を離れて、管理しやすい広さの家に移った。
(中略)戦後、中産階級や上流階級の女性の生活も、驚くほど少しも変わらなかった。戦前に比べて使用人の数が減り、管理しやすい手頃な大きさの家屋敷に移る傾向は続いたが、彼らの世界が家庭中心であることに変わりなかった。失業率が上昇し、仕方なく奉公に戻る者もあった。一九一四年生まれのダイアナ・マクルアが、一六歳になるまで自分でお風呂の水を汲んだことがなかった。両親とともに住んでいたロンドンの広いフラットには、小間使い、女中、料理人、下働きのほか、時には中働きまでがいて家を切り盛りしていたからだ。「朝になるとコックが決まって母のところにやってきて、いかがいたしましょうとお伺いをたてるの。昼食のお客さまは何人かとか、夕食の準備はどうしましょうとかね。母に関するかぎりはだいたいそんなものね。コックが注文から買い出しから一切合切をやっていたので、母はおしゃれをして一日を過ごしていたわ」。ブリッジやゴルフのおつきあいのほかに、奉仕活動をすることもあった。普通は資金集めを目的とした舞踏会のアレンジをしたものだった。
三〇代に家庭を持ったダイアナ・マクルアの家には、どのようなわがままでも聞いてくれる使用人がいた。しかし、ダイアナの世代は使用人を使うことを当たり前とは思っておらず、ダイアナは母親のような貴婦人になりきることができなかった。使用人を叱るときでも、一晩中眠らずに叱り方の練習をした。母親とは違って、「料理人が寝室まで伺いをたてにやってくることはなかったわ。朝、私のほうからコックのところへ行って、話し合ってから、自分で買い物に出かけたものよ。初めは買い物がへたくそで、どんな肉を注文してよいかわからなかった。母親に比べると多くの仕事をするのがますます当たり前になってきているわ」。家事礼賛のターゲットとなったのは、新しい秩序の中で自分たちの役割をはっきりと見出せないでいた中産階級の上流クラスだった。彼女たちは、祖母の代と違って大邸宅の主人でもなく、大勢の使用人や子どもたちがいるわけでもなかった。それでも、彼女たちの多くは家事を助けてくれる手があり、時間的余裕がたっぷりあった。(中略)(『第1章 家庭の中で――家を守る女性』より)
………………
ドロシア・ビールは、一九世紀半ばの典型的女性とは程遠い存在だったにちがいない。当時、資格をもつ数少ない教師の一人だったドロシアは、母親の時代から伝わる古い考えに、情熱をもって精力的に立ち向かった。女性の生殖器が成熟する思春期には休息が絶対に必要とされ、教育を受ければ女性の健康に害を及ぼすという考えがこの当時は当たり前の風潮だった。学区教育の負担があまりにも大きすぎるとこの成長過程を阻害する。不妊症にならないまでも、少なくとも母乳が出なくなる恐れがあると予想する専門家もいた。考えてみれば、これは実に奇妙な論理だった。社会は、かたや一四歳の少女に夜明けから夜中までメイドとして過重労働を強いながら、他方で女主人は休息をことのほか強調したのだ。(中略)
労働者階級の女子教育は公には(といっても誰もそれほど深く考えていたわけではないが)、妻や母としての務めを果たせるようにし、メイドとしての仕事をこなせるようにすることに主眼がおかれていた。そのことからすれば、必要なことは家庭や小学校で学べるので中等教育は必要ないように見えた。しかし、二〇世紀諸島に乳児死亡率が増加したことやボーア戦争(一八九九〜一九〇二年)の志願兵が身体検査で軒並み落とされたことに当局は大いにショックを受けた。一九〇四年に発表された「体力検査」に関する報告書は、この原因は妻や母親の水準が落ちているためと指摘した。では、労働者階級の女性の家事能力水準を引き上げるにはどうしたらよいか。政府は、「大規模な社会教育計画を推し進めること」こそ、もっとも手っ取り早い方法ではないかと考えた。確かにこれなら、人口過密、医療過疎、貧困による栄養障害といった問題に対処するよりはるかに簡単で安上がりだからだ。(『第2章 女の子だからって――女子教育について』より)
………………
独身女性は、親の家の近くに適当な仕事を求め、それが見つからないと女中奉公や店員などの住み込みの仕事を捜した。きちんとした家の未婚女性が一人で下宿することなど考えられなかったのだ。住み込みの仕事の場合、長時間労働や厳しい規則があって少女たちは職場に拘束され、品行方正な生活から足を踏み外すようなことはほとんどなかった。(中略)
女中奉公にしても、仕事で長時間拘束されて一人っきりの時間をもてることはほとんどなかった。しかし、一九〇五年当時、ローズ・アシュトンが望みうる仕事口は女中奉公だけだった。両親は当時一三歳だったローズをウルバーストンの労働市へ送った。市場に着くと、地元の農場主が少女たちを牛のように品定めしていたことをローズは今も忘れない。気に入った子が見つかると彼らは値踏みを始めた。「『六ヶ月で六ポンドはどうだい』って言われて、私たちはノーと返事した。それから次へ移ってためしたら、いちばん高い(掛け値が)ついた。六ヶ月で七ポンドほどくれるって言われたんだよ」。市は正午で終わる。ローズは、この頃にはどんな金額であろうと飲まねばならなかった。「農場主がわたしらのところへ来て、『仕事を探しているのかね、娘さん。六ポンド一〇シリングじゃどうかね』と言ったんだ。『結構です』と返事をすると彼は一シリングを差し出した。銀のシリング硬貨は契約成立のしるしなんだよ。いったんそれをもらったからには農場に六ヶ月いなくちゃいけない。帰りたければ、両親が六ポンド一〇シリングをその農場主に返さなければならないんだよ」
ローズの両親にそんな大金を工面できるはずはなく、ローズはその農場で奴隷同然の扱いを受け、クリスマスも休みなく働いた。「クリスマスの食事はそりゃあ素晴らしいものだった。私が洗い物をすべて終わらせるとマダムがやってきて、『終わったのかい?』って言うんだ。私が『はい、マダム』って言うと、『それじゃね、あそこにボールいっぱいの紐と大きな針とたくさんの紙があるから。パドックにお行き』ってマダムが言うんだよ。パドックっていうのはね、家族がトイレに使っている場所だったの……。そこに腰掛けて、ちょうどトイレットペーパーのようにその紙を細かくちぎって、それを縫い合わせて、トイレの後ろにつるしておくんだよ。涙があふれて仕方なかった。それが私のクリスマスだったんだよ」
これは、召使いたちの生活を描いた昔懐かしい小説から受ける羨ましいような環境とは程遠いものだ。たいていの場合、メイドは独りぼっちだった。エセル・ディーンは一九〇九年、母親の経営する下宿屋を出て仕事を探しに出かけた。わずか一三だったが、自分で生活費を稼ぐ時期が来ていた。エセルが見つけたのは小さな家のごく普通のメイドの仕事だった。使用人は一人だったので、エセルは孤独な思いで過ごした。「誰も話し相手はいないし、食事をとるのも一人でした。台所に座ってね。週に一度、半日だけ休みがとれたの」。エセルの母親はまもなく、別の仕事を探してきた。ほかに三人のメイドがいる医者の家の仲働きである。ここなら、少なくとも話し相手に事欠くことはなかったが、一日一四時間ぶっ通しで働いた。朝は六時にコックにお茶を出す仕事から始まって、就寝は午後一〇時、それも運がよければのことだ。(中略)
(中略)戦争のおかげでまったく別の世界に触れ、時計の針を元に戻すことがむずかしくなったのだ。弾薬工場で自分が必要とされなくなっても、エセル・ディーンは昔のようにメイドの仕事にだけは、絶対に戻りたくなかった。「屋敷奉公していたときは好きなときに出かけることもできなかった。工場なら自分の時間がもてるものね。どこに住んでいるにしろ、夜になったら家に帰るわけだし、好きなときに出かけることもできたわ」(中略)
一方、労働者階級の女子が従事できる職業の選択の幅は、以前とまるっきり同じだった。労働組合との取り決めどおり、戦争中についた職業はなくなった。昔のように、もっとも仕事が見つけやすかったのは屋敷奉公だった。人気はなかったが、多くの地域では仕事といえばこればかりだった。ブライトン出身のデイジー・ノークスとその姉妹たちは皆、幼い頃から母親に家事を仕込まれた。従僕をしていたデイジーの父親は、工場労働者を自分や家族以下と見下していた。子どもたちは一四歳になるまでは間違いなく父親が扶養してくれたが、それ以降は仕事を見つけなければならなかった。ある日、デイジーは何の予告もなく学校から連れ戻され、ご挨拶に伺うのだから服を着替えるようにと母親に言われた。二階の寝室に行くと、ベッドの上には母親のスーツが広げられていた。デイジーは仕方なくこのぶかぶかのスーツを着てみた。スカート丈はくるぶしのところまで届く。母親が見れば、すぐにおかしな格好だと思うだろう。ところが母親はおかしいと思うどころか、いくつかアクセサリーを持ってきて、デイジーをそれなりの格好に仕立てあげたのである。「母は黒いビーバーの毛皮でできた自分の防止を持ってきて、革の裏張りを折り返し、その中に紙を折りたたんで、それを私の頭に載せて似合うかどうか、ああでもないこうでもないと試してみたわ。やっとのことで防止が頭に納まると、今度は髪の毛が変な格好で押し出されていたの。母は後退りしながら私の姿をつくづく眺めて、『どうもうまくない』と思ったのね。大きな狐の毛皮を私の首に巻いたの。頭が尾っぽをくわえるようなちゃんとした狐の毛皮だった。それが私の姿だったのよ」
やっとのことで娘がそれなりの格好に仕上がると、母親は満足げにデイジーをつれて、メイドに使ってもらおうと大邸宅へ赴いた。二人はほっそりして威厳のある将来雇い主になるかもしれない女性の面接を受けた。「『お座り、おまえ』、『そうね、おまえ』って、私に向かって言うときは決まって『おまえ』だった。質問はすべて母にしたわ。身奇麗にしているかとか、癖はあるかとか、早起きかとか、雑用はすべてしつらえてあるでしょうねとか。すると母はそのたびに、『はい奥さま、はい奥さま』ってへいこら。『おまえ、立ってごらん。年はいくつ』って聞かれたんで、『来月には一四になります』って応えたの。そしたら、『もっと長いドレスを着れば、少しは年長に見えるわね』ですって。このスカートもくるぶしまであって歩きづらいのに、これ以上長いドレスを着たら、何をするのでも躓いてしまうって思ったわ」
こうしてデイジーは、一四歳の誕生日を前にして初めて家を離れ、見知らぬ家庭で独りぼっちで震えながら寂しく過ごした。一九二二年とはいえ、ほかに誰も召使いのいない家にただ一人メイドとして住み込むことは、戦前にエセル・ディーンが味わったようにデイジーにとっても惨めなものだった。一、二年たつと、デイジーもエセルと同じように、よりよい以後都に応募して自分の地位を高めようとした。ある面接ではこうだった。自分の名前を聞かれたので、「『デイジーです』と答えると、『デイジーね〜。ほかに名前はないの?』って言うんですよ。どういうことかと思ったら、『あのね、ドロシーっていう小間使いが一人いたんだけど、ドロシーって呼ばれるの嫌かしら』ですって」
どのような呼び名にしろ、仕事はデイジーには快適だった。戦前にくらべると女性の賃金雇用は減少していた。再教育講座は主として料理、家事の切り盛り、裁縫だった。昔メイドをしていた者の半数は、奉公に戻ることを余儀なくさせられたが、依然として抵抗していた者も少なくない。ローズ・アシュトンは、娘のグラディスを自分のように屋敷奉公には出すまいという決心だった。とはいっても、グラディスの記憶にあるとおり、「バローで勤め口といったら、店員になるかメイドになるか、どちらかしかなかった……。友達はほとんどが店員になった」。(中略)
女性が賃金雇用で一生を過ごすなどということはまったく考えられなかった(女性は夫が養ってくれるものという前庭に立っていたからだ)ので、高齢の独身女性の要求はしばしば見落とされがちだった。高齢の独身女性は職を維持するのがむずかしいばかりか、新しい職を見つけるのはそれ以上に至難のわざだった。彼女たちがことに辛かったのは、夫を亡くした女性は年金をもらえるのに、彼女たちには何年働いても結局、年金ももらえないことが少なくなかったからだ。女性は、国家的援助からも締め出されることが少なくなかった。たとえば、屋敷奉公は失業手当の対象にはならなかったのに、職業安定所が女性に世話してくれる勤め口はほとんどがメイドのようなものだった。申し出を拒否すれば失業手当はストップされたし、メイドになれば将来失業手当を申請できなかった。(『第3章 女性にふさわしい仕事とは――働く女性たち』より)
………………
引用した第三章を見れば分かる通り、二十世紀前半においても、メイドさんの扱いはかなり苛酷な事が見て取れます。
大野光子『女性たちのアイルランド カトリックの〈母〉からケルトの〈娘〉へ』平凡社
古代ケルト文化の伝統から、カトリックの因習、近代の移民や独立問題、そして現代の文学や大衆文化に至るまで、アイルランドの精神史を女性という観点から改めて問い直す書籍。
非常にユニークな観点から、アイルランドの女性を語る一冊。なかなか良い感じだと思います。メイドさん関係も、『第V章 ジャガイモ飢饉と移民女性』の中で少し触れられています。
………………
他のヨーロッパ移民では、まず父親が出稼ぎに出て、その資金で家族を呼び寄せるのが、典型的なパターンだった。しかし、十九世紀後半以後のアイルランド移民の場合、若い独身女性がまずアメリカの都会にやって来て、ほとんど生活費のかからない「住込み女中」(英語では「ドメスティック・サーバント」という用語が使われる)として働きながら、貯金をすべて故郷の家族に送り、それを資金として妹や弟たちがアメリカに呼び寄せられるパターンが典型的であった。さらには、彼女たちの送る資金は、大家族の姪や甥にもおよぶのだった。一つの家族から移民から出ると、次々に若い世代がアイルランドを後にしたのである。総計すれば莫大な金額の女性たちの稼いだドルが、長年にわたりアメリカからアイルランドへと流れたのである。(中略)
そして、若い独身女性の場合、就職先として住込み女中の口をまず紹介されるのが最も一般的だった。話がうまく進めば、一時寄宿した姉妹や叔母のささやかな住まいから出て、雇い主の家での彼女のアメリカ暮らし――家庭内労働と節約と教会通いの日々――が始まった。その際も、アイルランド移民たちの住居範囲は、大抵の場合、相互に訪問することの可能な距離内に限られた。共通のカトリック教会に通い、集まって故郷を偲ぶことができて、かつ困ったときには支援の可能な距離内に住むことは、心強くて重要な条件だったのだろう。おのずとアイリッシュ・コミュニティーが形成されたわけである。都市部の住込み女中と呼ばれる女性の職業を軸として、アメリカとアイルランドをつなぐ「女性の鎖」は続いていったのだった。(『第V章 ジャガイモ飢饉と移民女性』の『彼女たちはアメリカにどんな夢を描いたか――家族の絆と「女性の鎖」』より)
………………
アメリカの都市部におけるアイルランド女性の経済活動は、前述のとおり住込み女中という仕事を中心として行われた。工業地域では、工場労働者やお針子などの仕事に従事する者も不得手はいったのだが、一九〇〇年の全国統計でも、アイルランド出身女性の五四パーセントがまだ住込み女中として働いていた。
当時の中産階級家庭では、家事労働をこなす女中は必須であった。家事の補助となる電気器具などない時代の女中の仕事は、朝早くから夜遅くまで限りなく続く重労働、しかもそのような長時間労働をこなすには、雇い主の家庭に住み込む以外に方法はなかった。そのためには雇われる側に家族があっては不都合、というわけで、独身である必然性があったのだ。
また、訛りはあっても英語の話せるアイルランド移民女性たちは、アメリカ中産階級にとって、低賃金家庭内労働者として好都合であった。住込み女中の数は常に不足していたため、地域によっては、言わば恒常的に売り手市場の状態が見られるところもあった。
そんな地域を中心に、アメリカ人の「奥様」が、ようやく雇った気の強い「アイルランド人女中ブリジッド」の気まぐれに悩まされる、といった典型化された逸話が流布し、事実、日記にそんな悩みを綴った当時の中産階級主婦の記述も残っている。もちろん、この逸話は、WASPの抱いていたケルト系アイルランド人に対する人種的偏見を反映するものであるのは言うまでもない。
アイルランド女性の側から見れば、住み込みは逆に好都合であったようだ。重労働ではあっても、まず住居が確保できるし、たとえ残り物があてがわれるのであっても、雇い主の家族と同じく栄養のある食事にありつける。たとえ給金は少なくても(ただし、例えば西部の売り手市場となっていた地域では、ニューヨークなどの数倍の給金も支給されたという)、衣食住の経費がかからないので、給金を丸々自由にできる。アイルランドの家族に仕送りし、残りは貯金し、金額がまとまれば土地や事業に投資するなどの経済活動にも使うことができるのだ。
雇い主が寛大ならば、それ以外にもさまざまな物質的・文化的恩恵もあり得た。しかし、いやな雇い主でも、日曜のカトリック教会通いと同族の集まる機会さえ保証してくれれば、文句はなかった。もし、それが許されてないのなら、別の働き口を見つければよかった。アイルランド女性のネットワークがそうした移動を可能にしていたのである。あるいは、住込み女中を出発点として、洋裁店の経営、学校教師、看護婦などの「女性の仕事」とされている道に進むことも可能だった。実際にそうした実とを選んだ女性たちは多かったが、彼女たちと同様に「女性の鎖」に支えられていたのだった。
住込み女中として働くうちに、彼女たちはアメリカ昼餐階級の姿を、自らの理想にしていったのだった。しかし、理想と現実には相当な距離があった。この自覚が、アイルランド移民女性の独身主義を生んだのだと考えられる。しかも、アメリカの都会でアイリッシュ・コミュニティーを形成していたアイルランド移民たちは、周囲の目を気にして萎縮する農村社会と違い、多数の独身女性たちがいることにもかえって勇気づけられたのであろう。(『第V章 ジャガイモ飢饉と移民女性』の『独身時代はなるべく長いほうがいい?』より)
………………
ここではアメリカへと渡ったアイルランド移民女性のメイドさんが語られていますが、アイルランド人の『横の繋がり』の強さが、それ以上に、女性の『強さ』が伺えます。
第二十八回(2004.07.20現在)
竹内敬人+山田圭一/著『化学の生い立ち』大日本図書(日本化学会編 新化学ライブラリー)
近代から現代までに確立した近代化学全般を、前半は理論を発見した二十一人の化学者の生涯と業績の紹介によって、後半は四つの科学技術の理論とその関係者の伝記によって論じている書籍。
紹介されているのは十八世紀末から二十世紀初頭までに活躍した化学者ばかりで、十九世紀が如何に科学技術が発達していったのかがよく分かる一冊。
マイケル・ファラデー、白井俊明/訳『ファラデー ろうそく物語』法政大学出版局
一般に『ろうそくの科学』として知られる、十九世紀の有名な科学者ファラデーの、一八六〇年の冬休みの講演を、同じく十九世紀の科学者クルックスが集めて出版した書籍。一本のろうそくから様々な化学反応を分かり易い形で提示し、科学に対する興味を子供達に与える古典的な名作です。
講演をまとめて編集したもので、実験をしつつ講義を行っている事が分かります。内容は小〜中学生の教科書で教えるレベルで、それが既に十九世紀中葉で行われていたという事に驚きです。
J・トールワルド/原作、尾方一郎/訳、深瀬泰旦/解説『近代手術の開拓者』小学館(地球人ライブラリー)
第二十六回で紹介した『外科の夜明け』の続編。前回は実験・治療方面なのに対し、今回は手術が中心となっています。脳外科を初めとして、甲状腺や胆嚢、腫瘍、癌の摘出手術の最初を、小説的な手法で読み易く書いています。
訳者が前回と別人で、言い回しが若干違うので、続けて読むと違和感が生じますが、十九世紀末に始まった近代医学が分かり易く書かれてあり、参考になります。
モニカ・ディケンズ、高橋茅香子/訳『文学のおくりもの24 なんとかしなくちゃ』晶文社
十九世紀の有名な文豪チャールズ・ディケンズの孫娘が書いた自伝的小説のデビュー作で、二十二歳に退屈しのぎにと仕事を始めた頃の事を描いています。
メイド者の間では割と有名な一冊。作者は良い所のお嬢様なので、メイドさんするにも何処かアルバイト的な感じで応募しています。年代から見るに、数が少ない故に優遇された二十世紀三十年代の頃の様です。都会でのコック・ジェネラルの仕事に始まり、幾つかの雇用主の元で慣れない仕事を行い、中盤に田舎にある大きな屋敷でコックを、そして最後にはコック・ジェネラルやパーティーでのパーラー・メイドなどの仕事をして、彼女はヘトヘトになって家族の元へと戻ります。その間の出来事を、事細かに、面白おかしく、しかしその大変さをしっかりと書いていて、非常に参考になります。
第二十七回(2004.07.13現在)
別冊宝島編集部/編『人間・宇宙・精神まで 進化論を愉しむ本』JICC出版局
出版は一九九〇年とやや古いです。十八世紀末から現代に掛けての進化論に付いて、様々なから論じたアンソロジー。生物学だけでなく、哲学や社会学、神秘学、文学などから進化論の影響を語っています。
進化論ネタは結構取り上げていますが、今回も懲りずに取り上げています(ホントに好きだな)。
進化論に関連する様々な事柄を様々な人が割と簡単に論じていますが、やや小難しい印象を受けました。初心者は第九回の『はじめての進化論』を読んでからの方が良いかと存じますが。巻末の『進化論の本259選』が一番役立つかと。
松永俊男『ダーウィンをめぐる人々』朝日新聞社(朝日選書)
続いてはダーウィンに関わる様々な人物を紹介する事で、ダーウィンが論じた進化論を語る書籍。紹介されている人物は多岐に渡り、当時の化学者だけでは無く、ヴィクトリア朝に活躍した有名人や、彼の祖父や妻といった人々を紹介しています。
かなり簡単に紹介していますが、なかなか面白い一冊。ダーウィンの妻となった女性が幼馴染みで従姉の間柄に当たるウェッジウッド家のお嬢様でエマって名前だと言う事が分かります。
………………
エマ・ウェジウッドとチャールズ・ダーウィンはおさななじみの従兄弟同士で、エマはダーウィンより一歳年上であった。二人は、ビーグル号帰港から三年後の一八三九年に結婚し、両家から多額の財産を分与された。さらに資産運用と印税収入によって、彼等の生活はますます豊かになっていった。彼らが六十歳のころの年収は約八千ポンド、家事使用人は八人いた。
………………
エマさん金持ち。
ブラム・ストーカー、桂千穂/訳『ドラキュラの客』国書刊行会(ドラキュラ叢書)
『ドラキュラ』の作者ストーカーが書いた短編恐怖小説集。ドイツに旅行したイギリス人青年の恐怖の一夜を描いた表題作他、全九作を収録。
ストーカーの死後二年してから、ストーカー夫人の手によって編纂されたもの(ドラキュラ叢書は発表年数が書いてないので、その点が少々不満)。後書きによれば、表題作はドラキュラ人気にあやかって書かれたもので、本来は未定稿らしいです。主人公は殆どが中産階級出身の様で、彼等が様々な場所で出会う恐怖体験の数々は、当時のイギリスで流行った近代ホラーの典型例とも言えるでしょう。『狂った砂』は、ある屋敷を買い取った商人が、スコットランド高地の民族衣装を手に入れてずっとそれを着ていたが為に恐怖を体験する羽目になるという話ですが、そこでメイドさんがちょい役で登場しています。
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氏は女中のひとりに早ばやと起こされた。かれに会いたいと漁師にひとり玄関にきているというのだ。氏は出来るだけ急いで着替えた――まだ高地服の着付けはうまくなっていなかった――そして急ぎ足で階下へ降りていった。あの漁師を待たせたくなかった。が、その訪問者がほかならぬあのサフト・タミーだったのを知り、氏は驚くと同時にあまりいい気持がしなかった。老人はすぐさまかれに向かって攻撃しはじめた。
「郵便局へいくところだが、一時間ばかりきみのところに回り道して、まだこの間の夜着ていたつまらん服のままかどうか、見ようと思ってな。どうやらきみはわかっておらんようだ。なあ! もうそのといが近づいているのだ。ほんどうだよ! もっとも、私は昼前はいつもずっと時間がある。だから、きみがどんなふうに流砂のなかへ陥ち、そうして悪魔のところへいくか見張っているよ。昼には仕事があるからな!」そして老人はそのまま立ち去った。マーカム氏はいい加減腹が立った。氏が聞こえる距離にいあわせた女中たちが、たえきれずにくすくす笑うのが聞こえたのだ。
………………
似合わん事はするなって事ですかね。
第二十六回(2004.07.05現在)
J・トールワルド/原作、大野和基/訳、養老孟司/解説
『外科の夜明け 防腐法――絶対死からの解放』小学館(地球人ライブラリー)
十九世紀に確立した近代外科医学、その歴史を小説風の語り口で書いた書籍。麻酔、無菌法、止血法、この三つのものの発見により、術後の死亡率が驚く程ぐんと減った事が、生き生きと語られています。
文中に登場する医師達が、一人の人間としてその生活が描かれていて、とても面白いです。又、十九世紀末には白衣や手術用のゴム手袋が発明され、既に使われていた様子も伺えます。個人的にお勧めの一冊。
リットン・ストレイチー/著、橋口稔/訳『ナイティンゲール伝 他一篇』岩波文庫
四篇ある『ヴィクトリア朝人たち』の中から二篇を選訳した伝記集。看護を一変させたナイチンゲールと、教育に力を注いだラグビー校校長のアーノルド博士の生涯を、愛情とその裏返しと思しき皮肉とで巧みに描いています。
ナイチンゲールと言えば『ランプを掲げた貴婦人』のイメージが強いでしょうが、実の所気の強い女性である事は一般には知られていません。ここではクリミア戦争後の“熾烈な戦い”ぶりを皮肉を交えて書いています。もう一つの『アーノルド博士伝』の方は、短いながらもパブリック・スクールを“改革”した彼の校長としての“やり口”を、殊更皮肉たっぷりに散りばめています。
メイドネタでは『ナイティンゲール伝』にこんな記述があります。
………………
娘がそのような職業に生涯を捧げようとしていると考えて、彼女の両親が身を震わせたのも不思議ではなかった。後年彼女自身語っている。「それは台所働きのメイドになると言いだしたようなものであった。」その希望は、ばかげた不可能なものであったけれども、彼女の心の中に不動のものとして存在しつづけたばかりでなく、日に日に強くなり始めていた。
………………
ナイチンゲールがその活躍ぶりによって看護婦のイメージを一変させる前は、看護婦と言えばディケンズの小説に出てくるミセス・ギャンプの様な、身持ちの悪い飲んだくれ女というものだった訳だから、そう言われても仕方が無い訳でありますが……って事は、台所メイドのイメージもそんなもんなのか?
メルシエ/著、原宏/編訳『十八世紀パリ生活誌(上)』岩波文庫
メルシエ/著、原宏/編訳『十八世紀パリ生活誌(下)』岩波文庫
副題は『タブロー・ド・パリ』。原作は全十二巻、千五十二章という大作で、本書はその中から約五分の一である二百十九章を、一般読者に馴染み易い内容のものを選択した文庫版です。
『足で書き上げた』との言葉通り、革命前夜のパリのあらゆる場所、あらゆる階層に踏み込んで行き、大都市に生きる人々の姿を描いています。但し、著者のメルシエは少々誇張癖があり、又、十八世紀の作家にありがちな、テーマから外れて暴走するといった事が後書きに書いてあります。そこを踏まえても、当時のパリに住んでいた人間の生活ぶりが良く分かります。
メイドさん関係も少しあり、『〈U〉さまざまな階層の人々』には『召使い・従僕』『小間使い』『かささぎのミサ』などの独自の項もあります。では、それ以外の部分を引用しましょう。
………………
(中略)それらの行商の売り声で用いられる独特の言葉は、特に研究をしなければ、意味がはっきりつかめないほどである。女中たちのほうが、アカデミー会員よりもはるかに鍛錬された耳をしている。アカデミー会員の昼食をととのえるために、彼女たちは階段を降りていく。というのも、彼女は今売りに来たのは、「鯖」なのか、それとも「生の鰊」なのか、それとも「レタス」なのか、それとも「甜菜」なのかを、五階の高みにいて、しかも通りの向こうのはずれから聞こえてくる場合でも、聞き分けられるからである。語尾はほとんどどれもおなじ調子なのに、博識なる女中殿が少しも聞き間違えをしないですむのは、もっぱら慣れ親しんだたまものにほかならない。彼女以外の誰にとっても、売り声はわけの分からぬ不協和音にしか聞こえない。(『パリの物売りの声』一七八三年)
………………
(中略)女中も下男も、この家の前の仕事は、とてもぞんざいにすます。おまけにほうきは、道路のまん中の溝までは全然届くことがない。というのは、パリは他の土地以上に、誰もが自分のために生きているからであり、社会全体の利益などあまり気にかけないからである。(『道路清掃人夫』一七八三年)
………………
ここにいる代書屋たちは、神学者とそっくりな生活をしなければならない。しかも神学者より人の役に立つ人たちで、女中たちの恋の秘事の受託者である。彼女らが、愛の告白や恋文への返事を書いてもらうのは、まさにここなのだ。彼女らは、公衆の秘書の耳元で、まるで聴罪司祭にでもものを言うように語るのである。(『イノサン墓地納骨堂の代書屋』一七八二年)
………………
今朝ある侯爵夫人が、小間使いに向かってこう言った、「二週間も前から喪に服しているんだけど、まったくいやになっちゃうわ! だけどね、ロゼット、私はいったい誰の喪に服していたんだっけ?」 そこでロゼットは教えてやった。(『未亡人の小道』一七八八年)
………………
小間使いが〔家で〕起っていることを洩らさず報告してくれるので、その家の主人、女主人、召使いどもの秘密に通じている。(『神父』一七八二年)
………………
ふつうその一群を構成しているのは、偽善者もいれば誠実な者もいる数人のブルジョワの女と、人生の終りのことを考えている何人かの老人と、告解に行かないと女主人の目には泥棒と見られそうなたくさんの女中たちなどだ。学生たちはむりやり連れて来られる。聴罪司祭は、そのうちのひとりの告白を聞くだけで、その一団の告白はぜんぶ分ってしまう。(『聴罪司祭』一七八三年)
………………
小ブルジョワ階級では大変な騒ぎになる。商店主にとっては、この時期はいつも面倒なことが多い。告解に出かけたり、復活祭の聖体拝受などがあるからだ。子供たちや、店の小僧や、女中に対する家長としての訓戒。不信心者の卵たちにとっては、告解は何と気が重いことだろう! どう決心をつけるべきか分らなくて、どんなに困っていることか!(『復活祭の二週間』一七八三年)
………………
大家の給仕頭たちが、気に入ったものを残らず大きな篭の中に入れて持ち去ってしまった頃になって、女中たちが前掛けをつけて現れ、果てしなき争いがくりひろげられる。小間切れで売られるものは、貧しい所帯がみな隣人と競争して買うので、三倍も高く売られる。万事市場のかみさんの思いのままである。まともな昼飯を食べたいのなら、彼女らの言い値で買わなければならない。したがって世界広しといえども、パリの民衆よりひどい食事をしている民衆はあるまい。(『中央市場』一七八二年)
………………
(中略)パリっ子は、おいしい海の魚のご馳走を味わいたければ、ディエップにでも行かざるをえない。で、ブルジョワは少し「金がたまる」とまず自分ひとりでそこに旅してみて、次にまるまるとした奥さんを連れていく。ふたりは大海を前にしてうっとりとしているが、それも無理はない。ところがヘラクレスの柱にでも触った気になって、急いで家に帰ってしまう。それほど遠くまで行ったのだし、それほど旅は楽しかったのだから、ふたりは毎晩夕食のときに、娘たちやあきれ顔の女中を相手に、旅のことを生涯話して聞かせることだろう。(『海の魚』一七八二年)
………………
個人的には『未亡人の小道』や『海の魚』なんかが気に入っているんですが。苦笑気味のメイドさんの顔が目に浮かぶ様です。
『春山行夫の博物誌Z 紅茶の文化史』平凡社
茶が西洋に伝わった十五世紀頃から現在に至るまでの、紅茶に纏わる書籍。紅茶だけでなく、茶器や菓子など、紅茶に関する様々な事柄に付いても記載されています。
これを見れば紅茶の歴史が大体分かると言う程、詳しく書かれた一冊。十九世紀の紅茶に関する話では、紅茶を運ぶ船クリッパー、アッサム種とセイロン茶、リプトンの生涯、コーヒー・ハウスから紅茶専門のティー・ルームが分離するまで、喫茶の風習など多種に渡ります。
メイドさんに付いての記述は以外と少ないのですが、その中の『十九世紀』の項から引用します。
………………
家政婦が茶盆をはこんでくるとき、その姿は見るからに好ましいものだ。彼女の顔つきは楽しげである。がしかし、彼女のほほ笑みには、光栄ある役目を果しているときのように、何か厳粛なものが見られる。(中略)彼女が口をきくとしても、それはほんのひと言かふた言の、気軽な言葉であろう。なにか大切な用談があるなら、その時間は茶の前ではなく、かならずその後であろう(『「ホーム」のくつろぎ』より)
………………
それに対し、フランスはコーヒーの国で、滝沢敬一の『フランス通信』によると、「フランスで茶というと煎茶の如く、イギリスでコーヒーはにがい墨汁にすぎない。リプトンの茶包みでは仏文で使用法がこまごまと説明してあるにかかわらず、フランスの女中はなまぬるい湯に茶を投げこむ」と、苦情が書かれている。(『お茶好きなイギリス人』より)
………………
その頃の食生活では、朝食をたくさん食べ、昼食(ランチ)は軽く、夜食(ディナー)は八時頃だった。アンナ夫人は午後五時頃になると「気力がなくなる」(と彼女は書いているが、その原因は空き腹であった)ので、召使にお茶とケーキを運ばせた。午後に「気力がなくなる」のはほかの夫人たちも同じだったので、この風習はじきにアンナ夫人の知りあいの夫人たちのあいだではやりだした。(『お茶と菓子』より)
………………
召使いのいる階級のあいだでは、早朝に一碗の茶をベッドに運ばせるのが慣習で、それが目覚めと、元気づけの役目をはたし、それによって一日がはじまる。この慣習はホテルでも行われているので、勘定書に「寝室に運んだ茶」の料金が書きこまれるようになった。
社会情勢の変化で、家庭の召使や店員や事務所の女性たちのあいだで、早朝や正午にお茶を飲む習慣がひろまった。富裕な階級のあいだでは、正午にお茶を飲む習慣は一般的でないが、労働者や中産階級の下層のあいだでは普通になった。それらの人々にとって正午の食事は一日の主食事で、肉と野菜と甘いものを食べたあとで、一碗の茶を飲んだ。(『階級による風習のちがい』より)
………………
因みに『十九世紀』にはウェイトレスに関する話も載っていて、それに付いても引用します。
………………
★ウェートレス 「ライオンズ」の店では、ウェートレスには明るくて、品位のあるサービスをさせることを目標として、絶えず時勢にあったキビキビした服装をさせたことでも有名で、とりわけ昔は高いカラーとカフスにエプロンというスタイルが名物だった。
手元にある英和辞典で“nippy”という語を引くと、「ライオンズ(英国の喫茶店名)の女給」と解説がでているが、この語は俗語で「活動的な、元気のある、注意のよく行届いた」という意味で、ロンドンでは「ライオンズ」のウェートレスをさす日常語になっている。
………………
ええ、当ホームページの“Nippies”も、これから来ているんです。
第一回〜第十回/第十一回〜第十五回/第十六回〜第二十回/
第二十一回〜第二十五回/第二十六回〜第三十回/第三十一回〜第三十五回/
第三十六回〜第四十回/第四十一回〜第四十五回/第四十六回〜第五十回/
第五十一回〜第五十五回/第五十六回〜第六十回/第六十一回〜第六十五回/
第六十六回〜第七十回/第七十一回〜第七十五回/第七十六回〜第八十回/
第八十一回〜第八十五回/第八十六回〜第九十回/第九十一回〜第九十五回/
第九十六回〜第百回
→トップに戻ります。
資料をまとめてみました。
→メイドさんに関する資料・一覧表
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