
☆図書館にでも行きましょうか。☆
☆図書館にでも行きましょうか。☆
最近ロクに更新していないので、又新たなコンテンツを立ち上げたりして。
万年金欠な小手鞠萌はよく図書館に行く訳ですが、そこでよく借りる本の中でも、面白かったり資料としてなかなか良い物を紹介するコーナーです(安上がり)。
因みに基本は“十九世紀”。本物のメイドさんが生きていた時代っすね。でも読んでいる本、かなり偏りあり過ぎです。しかも実はあんまり小説読まない事、バレバレ。大層なもんでは無いけれど、ある意味“裏ヴィクトリアン・ガイド”かも(^_^;)。
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資料をまとめてみました。
→メイドさんに関する資料・一覧表
第四十五回(2004.11.28現在)
木谷勤+望田幸男/編著『ドイツ近代史 ―18世紀から現代まで―』ミネルヴァ書房
ドイツの近代化の歴史をドイツ連邦期、帝国主義、ワイマル期、ナチス期、そして東西ドイツの統一などに焦点を当てて論じた書籍。
近代ドイツの歴史が詳しく書かれてあるので、歴史に詳しくない私には分かり難かったです。メイドさん関係は、姫岡とし子が担当した第三章第五節に数行ある程度です。
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対照的に、中産階級の主婦はこれまでは家事使用人に任せていた家事の下働きを自らの手で行わなければならなくなった。一九二五年の女性の就業人口は〇七年のそれに比べて二〇%あまり増加しているのに、家事使用人の数は一五%あまり減少し、人手不足が深刻になった。低賃金で、しかも就労時間の一定ではない家事使用人の職を、若い女性が好まなくなったからである。また一九二三年のインフレーションによってこれまでの蓄えを失った中産階級にとっては、もはや家事使用人を雇う経済的余裕はなくなった。(『第三章 苦悶のマス・デモクラシー』の『第五節 都市大衆社会の生活と文化――家族と女性を中心として』より)
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メイドさんという職業が衰退していく理由は幾つかの原因が複数絡み合って存在していますが、矢張り戦後に於ける女性の意識の変化がある事や、中産階級の経済的余裕が減っていった事が大きかった様ですね。
三谷康之/著『イギリス紅茶事典 文学にみる食文化』日外アソシエーツ
イギリスの食文化を、豊富な写真資料と文学からのアプローチによって紹介している書籍。
イギリス文学に欠かせない“喫茶”に関する情報が満載で、非常に為になるお勧めの一冊。文学からの引用も多く、如何に当時のイギリスでメイドさんが必要不可欠な存在であったかをも物語っています。
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ミルクの方を先にするお茶は‘mill−in−first tea’というが、そちらが好まれる理由としては、次の4つが主なものになる。
(1)カップの中に前以て入れてある少量のミルクに熱い紅茶を一気に注ぐことによって、ミルクが焦げて、独特の風味(flavour)が加わる。
(2)最初にミルクを入れておくことによって、カップ(特に底の部分)に紅茶の茶渋がつきにくくなり、飲み終わってから洗うのが楽である。
(3)磁器製の薄いつくりのカップを用いた場合、いきなり熱い紅茶をそそぐことによって――実際問題はともかく――ひびが入ったり割れたりするのではないかという心配から、先にミルクを入れておくことでそれが防げるのではないかという考え。
(4)先にミルクを入れておけば、紅茶を注ぎ入れることで両者がよく混ざり合うが、後からだとスプーンでわざわざかき混ぜる必要が生ずる。
上記の(2)についてだが、一般大衆にはミルク前派が多く、上流階級は概してミルク後派(milk−laster)だといわれている通りで、喫茶の後にカップを自分で洗わなければならないか、それともメイドに洗わせれば済むのかという、身分や立場の問題とも関連があることと推察出来る。(中略)(『Tea Making & Tea Drinking 紅茶の作法――入れ方と飲み方』の『Tea Drinking;Tea−Drinking(紅茶の飲み方)』の中の『milk−firster【(紅茶の)ミルク前派】』より)
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写真を見ると、紹介されている料理が妙に美味しそうに見えます。
指昭博/著編『生活文化のイギリス史 紅茶からギャンブルまで』同文舘
一般的な日本人が抱く“イギリス”のイメージを、近代化が進んだ十九世紀頃を中心に、様々な視点で様々なものを紹介する事で、より本物に近付ける様論じた書籍。
紅茶やイギリスの料理、アンティーク、スポーツ、ギャンブルなど、イギリスの文化とも言えるものを紹介しています。それだけでなく、大英帝国の栄光を支えた裏側、いわば『影』の部分も紹介してあって面白いです。ウィンブルドン・テニスを紹介した項では、当時のテニス選手の衣装が紹介されているのですが、女性はオール・ホワイトのドレスに汚れ防止のテニス用エプロン、スポーティーな麦わら帽子と、結構お洒落な感じでGood。メイドさん関係は『T 楽しき哉、わが家』の『イギリスの料理術』と『X 四季のうつろい』の『ヴィクトリアン・クリスマスの光と影』で少しだけ紹介しています。
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ここでは、私たちの目の高さでの「生活」を考えるという視点から、いかにも歴史家の露悪趣味のように思えるかもしれないが、つとめて「楽しみ」の裏の「寂しさ」、「優雅」を支える「きびしさ」にも目を向けた。もしヴィクトリア時代のイギリスに住んでいたのなら、私たちの多くは「紅茶を運ぶ」メイドの側に立っていたのだ、ということを忘れないためにも。(『はじめに』より)
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ヴィクトリアン・クリスマスには、家族に優しいまなざしを向ける美しい妻、母の姿は不可欠であったけれども、豪華なディナーの準備に腕をふるったのは彼女たちではなかった。クリスマスの準備に忙しく立ち働いたのはサーヴァントたちであったのだ。こうしたサーヴァントたちにとって、中流階級の家庭でくり広げられる華やかな、家族団欒のクリスマスの姿は、どのように映っていたのだろうか。(中略)
暖かで健全な家族を理想とした中流階級によって、そうした家族像にもっともふさわしい行事としてつくりあげられた、華やかで楽しげなヴィクトリアン・クリスマス。しかし、この当時、そのかげでは本来のホリデイとはほど遠いクリスマスを過ごす人々は少なくなかったのだ。(『X 四季のうつろい』の『ヴィクトリアン・クリスマスの光と影』より)
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華やかなヴィクトリア時代の影には、それを支えていたメイドさん達の人知れぬ苦労があった訳ですね。
第四十四回(2004.11.21現在)
ミシェル・ペロー/編『[新版]女性史は可能か』藤原書店
十年の間に発展した“女性史”。しかしそれは一体何であり、何を意味しているのだろうか。男性と女性の両性の間にある関係を中心的な問題として据えた時、如何にして歴史を見る視線の方向が変わるのかを示した書籍。
幅広い様々なテーマから“女性の歴史”を論じた書籍です。フランスの論文なので、フランスに於ける女性史が主なテーマです。中には近代や十九世紀に関するテーマのものもありますが、印象はやや散漫気味かも。メイドさん関連はアニェス・フィーヌ『嫁入り道具は、女性固有の文化か?』。
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一九〇〇年から一九三〇年にかけて、みじめな青春時代を送った三人の女性の話は、その実例である。一人目の女性は、一九〇七年にアヴェロン県の非常に貧しい小作人の家に生まれた。かの女は、一一人もいたなかで、四番目の子どもだったが、七歳のときから農場の召使いとして働きにでた。この女性が語ったところによると、その一生は絶えまない転職の連続だった。しかも、こうしてつぎつぎと変わった雇い主のことは、かの女の記憶のなかでは、一貫して、与えられた食事の量と結びついている。召使いとして得たわずかな収入が、弟や妹を養うために両親にとりあげられていたからである。こうした理由から、この女性は十八歳になっても、自分の嫁入り仕度をはじめることができなかった。そのうえ、二十三歳で私生児を産んだため、もはやまともな結婚は望むべくもなかった。それでも、かの女は、貯蓄銀行にためておいた分の給料だけは、どうにかして父親の手からとり戻した。だから、四十歳になって、七人の子持ちの寡夫と結婚した時、この女性は、ごく質素ではあったが嫁入り道具をもっていくことができた。つまり、ベッドカバー一枚と一ダースほどのタオルを。けれども、かの女はこの話をしながら、すぐに、自分にはできなかったことを残念がっている。「ナプキンを、わたし、もっていなかったのよ」と。またシーツの話をするときも、一二組ももっていくものがいるのに、自分は三組しかもっていけなかったと嘆くのである。さらに、刺繍についてはほとんど話すこともないため、「イニシアルはしたわ、でもそれ以上はね。あと、格子ステッチはしたけれど」と、憮然と答えるのであった。
わたしたちは、もう一人別の女性からも、その生涯の話を聴きとったが、この女性の場合も、やはり、十分な嫁入り道具をもつことができなかったのは、経済的貧困のせいだった。けれども、この女性も、こうした貧困がいかに深刻なものなのかを、年若い聴きとり手にどう伝えていいかわからなかったようである。問題の女性は、一八九九年、南部の内陸ロート県にあるサン=シルク=ラポピーの町のロクロ職人の娘として生まれた。十四歳になると女中奉公にでて、第一次世界大戦中にトゥールーズで住み込みの家政婦になった。月収わずか一八フランであった。「靴一足が一七フランしたのに、どうやって貯金ができるっていうんだい。わたしの場合、親も文無しだしさ。文無しだよ、わかるかい」。それでも、かの女が一九一九年に結婚した時、ごくつつましい嫁入り道具、つまりパリに移住した両親からもらったわずかばかりのリンネル類と、トゥールーズの女中部屋で刺繍したブラジャーを数枚もっていった。これについてかの女は、「ほんのあり合わせのものでねえ。なにしろ、お金がなくって、布地を買えないのさ。わかるかい」、というのであった。
こうした貧困にくわえて母親を早くに亡くすと、惨めさがよりいっそうつのったようである。三人目の女性は、アヴェロン県の小作人の家で、七人の子どもの末っ子として生まれたが、この女性もまた、農場の召使いをしていた。かの女は、嫁入り道具が少なかったのは、母親を早く亡くしたためだと残念がっている。というのも、この母親は、まだ健在だったころには、家が非常に貧しかったにもかかわらず、姉たちの嫁入り道具を準備してやれたからである。ところが、この娘は、愛情をこめて協力し、いっしょに努力してくれる母親をなくしていたため、刺繍のほどこされた嫁入り道具をもっていくことができなかった。残された娘は、「最小限必要なリンネル類」を買うのにも、それまでにまして精一杯働かなければならなかった。そのうえに刺繍する時間など、どうやって工面することができただろうか。
一九五〇年にロート県で生まれたアリスの場合も、同様である。この娘は孤児であったため、貧民救済制度によって裕福な地主の家に召使いとして奉公にでた。「わたしは、嫁入り道具を準備しなかったわ。助けてくれる人がだれもいなかったのよ。お裁縫や刺繍は好きだったけど、やっぱりだれか手助けをしてくれる人が必要だったわ」。ここでも母親のいないことが、いかに辛いものであるかがわかる。アリスの場合、ふつうに母から娘へと伝えられるたしなみを教えてくれる人が、まわりにいなかったからである。そして、しかも嫁入り道具をもてないということが、孤児というアリスの社会的な立場をいっそう不安定なものにした。経済的な貧しさと、愛情をかけてくれるものがいなかったことが、重なってしまった例である。(『嫁入り道具は、女性固有の文化か?』の『社会的規範とアイデンティティ』より)
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フランスでは結婚の際に持参品を用意する様ですね。因みに男性の場合でも、他家に婿入りする時も用意するとか。貧しい下層階級の娘にとっては、この嫁入り道具を用意出来るか否かによって、その家の中での地位が決定するので、よけい気にする風習の様です。逆に裕福な階級の娘から見れば、あまり気にしていない様子も伺えます。
長島伸一/著『世紀末までの大英帝国 近代イギリス社会生活史素描』
法政大学出版局(叢書・現代の社会科学)
十五世紀末から十九世紀末に掛けての近代イギリスの生活史を、商業革命、産業革命、そして斜陽に差し掛かった十九世紀末までの三つの区分けで論じた書籍。
最近女性史関連のものばっかなので、ここら辺で初心に戻ってイギリスの歴史のものをご紹介。著者は近代イギリス関連の書籍を調べると必ず出てくる大御所です。要点を押さえているので、初心者用の資料としてピッタリの一冊。
一応メイドさん関連の情報を引用。
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ところで、産業革命期の中流階級の収入の増加は、有効需要と結びつくことによって、中流各層のステイタス・シンボルを充たす力を、彼らに保証した。(中略)しかし、中流階級ならば、その下層でも、やがてハウス・メイドを雇い入れて、主婦がその家事労働を軽減することも可能だったし、中層ならば、いずれはハウス・メイドのほかにコックやパーラー・メイドやナース・メイドを雇って掃除・洗濯・料理・配膳・子守りなど一歳の家事から解放されることが不可能とはいえなかったし、また、馬車を所有し、モーニングやイブニング・ドレスでパーティに明け暮れることも不可能ではなかった。(『第二部 産業革命と諸階級』の『第三章 上・中流階級の家庭と社会生活』の中の『1 ミドル・クラスの理想と典型』より)
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もう一つ、この表から読みとれる顕著な傾向は、直接生産とはかかわりをもたない公務員・軍隊関係者・専門職・家事使用人が、すべて人口増加率を上回る比率で上昇していることである。(中略)家事使用人の数も、本書の読者には驚くにあたらないかもしれない。しかし、十九世紀初頭のP・カフーンの時代にすでに一三〇万人いた召使の数が、一八五一年になってもほとんど変わっていないこと、しかしそれ以降は人口増加を上回る上昇率を示していること、の二点には注意しておくべきであろう。つまり、このことは、社会的には、家内奉公人を雇いうる中流階級の増加を裏返しに証明するものであるし、経済的には、機械制大工業の発展による雇用労働者の相対的現象を意味するものであった。後者についてマルクスは、一八六一年の国勢調査の結果にもとづいて、工場労働者とくらべた大量の家事使用人の数に注目して、「機械の資本主義的利用の結果のなんというすばらしさだろう!」と皮肉を込めて慨嘆している(『資本論』第一巻一三章第六節)。(『第三部 世紀末までの大英帝国』の『第二章 パックス・ブリタニカの虚像と実像』の中の『2 生活水準の工場と「二つの国民」の家計』より)
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十九世紀に於ける中産階級の増加が、メイドさん需要を呼んだ事がよく分かります。
オフェイロン/著、橋本槙矩/訳『アイルランド』岩波文庫
副題は『歴史と風土』。著者は現代アイルランドを代表する作家。古代ケルトの神話から現代の独立運動まで、アイルランドの歴史と風土を文明史の視点から多面的に描き出した精神的考察の書籍です。
イングランドのお隣に位置するアイルランドに付いて書かれた書籍。著者はアイルランド国家警察の警部を父親に持ち、英国主義的文化の中で育ったものの、イースター蜂起が「人生最大のトラウマ」となった事がきっかけでゲール協会に参加する様になったが、しかしIRAの広報員として活動していく内に理想と現実の闘争のギャップに気が付き、民族主義に懐疑的になったという歴程を歩んでいます。そのせいか、愛国的でありながらも、狂信的な民族主義的な事柄にはとても批判的なスタンスを取っています。言い回しがやや読み難い所があるものの、初心者がアイルランドというものを理解するには丁度良いかも知れません。
第四十三回(2004.11.14現在)
イレーネ・ハルダッハ=ピンケ+ゲルト・ハルダッハ/編
『ドイツ/子どもの社会史 1700―1900年の自伝による証言』勁草書房
近代に於ける子供像の真偽を、当時生きていた人間の手による自伝を元に論じた書籍。この中での“子供”とは七歳までの時期を指していますが、これは古代ローマ法から中世における慣習法の判例を経て、1794年のプロイセン一般国法典に至るまで、法政史上の慣例とされていた事実に基づいています。
自伝を基盤にしている為、取り上げられる事例は字の書ける上流・中産階級の人間や、下層階級でも男性ばかりです。それでも当時のドイツがどの様なものか良く分かります。メイドさん関係は上流・中産階級の方がよく出てくるので参考になります。
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僕婢は、核家族にみられる連帯・親密さ・情感などとは無関係であった。このことは、雇用および解雇に関する規定や、さらに経験的レベルでは、自伝の中でも述べられている使用人の変動の激しさからも明らかである。実用的な家政についての助言が掲載されている同時代の家長のための書物もまた、主人と召使いの関係の労働法的な性格を強調している。身分制社会の家における僕婢の地位を、近代的な、市民的な意味における家族の一員のような輝かしいものに仕立て上げたのは、実は一九世紀の保守的なノスタルジーなのであった。身分制社会の生産を基礎とする世帯における僕婢の役割は、一九世紀の状態と比較してみるならば、実際には家族というよりはむしろ経営体の中での役割に相応するのである。(『序論 子ども期の社会史のための手引』の『3 家族』の中の『1 社会化担当機関としての家族』より)
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「父はたいがい口数の少ない、しかも断固とした話しぶりの人で、わが家に住み込みで働いていた店員たちとの関係には一切私情を交えなかった。プロイセンではもう廃れた習慣だったが、男女の使用人に対して父はそれぞれ、エア(彼)・ジィ(彼女)〔現在はそれぞれ三人称の彼・彼女の意。古くは下位にある者に対して使われた〕の形で話をしていた。けれど簡潔かつ断固たる表現のために、父の言うことには誤解が生じにくく、皆、父の思い通りによく働いたので、父としては叱責したり激することも非常に稀だったわけだ。父が婦人や子どもに対して乱暴であったことは見たこともないし、彼に仕える人びとすべてにとって、父は厳格だが公正で良い主人だと思われていた。ついでながら、使用人の出来が悪いのは、たいてい命令する側の野蛮さや下品さによることが多い。(『19世紀 [ 上層市民の子どもたち』の『ファニー・レーヴァルト』より)
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「(中略)父と母は、子ども部屋にやってきては、なじり、叱りつけ、禁止し、そしてまた出ていった。私たちが使用人の手に任されていたのは、何と幸運だったことか。
夕方には客人たちが来た。わが家の一日の食事のとり方は英国式で、主餐は晩七時頃だったからである。この時には両親もメイドも着飾っていた。子どもたちはベッドに連れてゆかれた。大人たちは食卓につき、音楽が奏でられ、歌がうたわれた。(中略)
小さなゲルトルートの死後ほどなくして、新しいねえやが雇われた。名をアンナ・オッパーマンといい、赤味がかった金髪で、興奮しやすく粗暴な性質だったが、飛びきりの美人でもあった。私は、時折、父が彼女の体を撫ぜるのに気がついていたし、彼女の方でも何らかのやり方で父を利用し、操っていると感じとっていた。このアンナについては、母にも父にも助けを求めることができないこともわかっていた。この赤毛の畜生女は、私にとって悪魔となったのである。今この年になってもまだ、早くから私を悩ませると同時に考え込ませた、あの記憶の数々を明るみに出すのは、不快でならない。
父は仕事に、母は娯楽に始終没頭していた。まるで二頭の動物の子、二匹の小犬か何かのように、私たち二人が面白半分にもて遊ばれるために父母の元に呼びつけられる、という以上のことは望めなかった。私たちには例のねえや(ボンヌ)がいたのだ。加えてメイドのフリーダと料理婦のエミーリエもいた。日中は、結婚して他所に住んでいた使用人のボルヒャースもよくやって来た。これで、私たちを監督する目には決して事欠かなかったわけである。
当時町でも指折りのお屋敷であった、都会風の赤いわが家は、いつも賑わっていた。儲けも莫大ならば、出費もまた莫大というわけだ。(中略)下男下女たちの入れ替わりは激しかった。彼らはごうつくばりの利己主義者ばかりで、あるものは怠惰、あるものは淫猥でさえあった。たとえ彼らがもともとそんな人間ではなかったとしても、彼らの奉公先であるこの金坑夫の飯場が、一家の主婦と主人の愛人たちが同じ食卓についているようなこののどかな家庭が、傍若無人の関白支配が、彼らをして狡猾な人間にしてしまわざるを得なかったろう。彼らをこの家に繋ぎ止めていたのは、高給以外の何ものでもなかったのである。私の記憶の中では、彼らは堕落した虐待者の一群である。だが私に対してまことに破滅的な影響を与えたのは、例の赤毛の若いねえやだった。私たちはこのねえやに昼夜まかせっきりにされていたわけだは、誰一人として、それが私たちの発育にどんな影響を及ぼすか、考えもしなかったのである」。
「私は長い間、多くの恐ろしい夢に苦しめられていた。――家では社交の集会が催されている。ゲオルゲ塁壁に面した、寄せ木細工の床の大広間には、絹服に身を包んだ母が腰かけ、父は銀行員や芝居の花形たちとご馳走を食べたり酒を飲んだりしている。私たち二人の子どもは、赤毛のねえやと一緒に奥の小部屋にいる。この部屋で彼女は、私たちと一緒に寝起きしていた。常時台所の灯に照らされている長くて狭い廊下では、食器やガラス器が音をたてている。使用人のボルヒャースは笑い声をあげて、料理女と騒いでいる。隣の台所では、料理やワインの残りが皿からとり除けられており、ぴんと張った小頭巾をかぶったメイドのフリーダは、扉のすき間からひっきりなしに頭を突っ込んでは、パテの残りだとか雄七面鳥の肉切れ、殻つきアーモンドや葡萄、あるいは半分しか開いていないワインなどを持ってくる。ねえやのアンナはそれらを飲み食いし、子どもたちにまで与えては過食させ、さらに赤ワインまで飲ませるのだった。この階全体が笑い声や騒音でどよめいている。正面の方の部屋では紳士淑女方が興じている。奥の方では使用人どもが楽しんでいる。このような日には、監督など忘れられていた。母は家政に何の注意も払わなかったし、父も機嫌のよい時は五を偶数にしてしまうほどのいい加減さで、その上に愛想よくメイドたちのところに姿を見せて、ちゃんと楽しくやっているかねなどと尋ねたりするのだった。(中略)」。(『19世紀 [ 上層市民の子どもたち』の『テオドール・レッシング』より)
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ファニー・レーヴァルトとテオドール・レッシングの、メイドさんに対する視線は正反対ですが、文章を見てみるとお互いの家族の家長である父親の性格の違いが、使用人に影響している事が分かります。この二人の自伝には、当時の上流・中産階級の暮らしぶりと彼らに仕えるメイドさんに関する情報が詳しく書かれています。
中山千代/著『日本婦人洋装史』吉川弘文社
日本に於ける洋装の文化と歴史を、種子島へヨーロッパの船が漂流した天文十二年から現代に掛けて論じた書籍です。
洋装と言う事で、制服関係も割と多く紹介されています。しかしメイドさん及びウェイトレスさん関係は少ないです。
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コーヒーや洋酒を供するカフェーは明治末から開かれたが、文学青年や画青年のたまり場であった。大衆化して各地の歓楽街に繁昌したのは、震災後である。カフェー女給のシンボルは、白いエプロンであった。欧米の女給仕人にまねたエプロンを、縞のお召のきものにかけて、蝶結びにする。しぼのある縮緬織物のお召は地厚で丈夫なため、はたらき着に適していた。銀座尾張町角のカフェー、ライオンの女給は、和服の上に筒袖長裾の様式上っ張りを着て、エプロンをかけた。これは、経営主西洋料亭静養軒の考案であった。(中略)(『第二部』の『第三章 大正洋装』の中の『二 大正末期』より)
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四年九月、東京市小学校女教員修養会は、「小学校女教員の服装は洋服に限る」と決定した。(中略)洋装化の第一段階として、同会は女教員服標準型を中心に各種の職業婦人服を集め、九月十二日から九日間、上野松坂屋で陳列会を催した。展示された「現代職業婦人の標準服装」は次の通りである。
レデイース・メイド(夫人、令嬢付の婦人)
ワンピース。黒クレープデシン地。カラーとカフスは白、エプロンは黒地(一七円)
ウエートレス
ワンピース。紺サージ。エプロン、カラー、カフスは白キヤリコ(一六円五〇銭)
チヱムバー・メイド
ワンピース。白絹ポプリン(八円五〇銭)
当時の小学校女教員初任給は四五円、一般職業婦人の平均給料は三〇円であったから、これらの洋服購入はかなりの支出となる。しかし、和服外出着の価格とは大差なく、職業婦人の給料で誂えることのできる衣服であった。明治洋装はもとより、大正八年の津田敏子の洋服(上着とスカート、五九円)より安い。(中略)チヱムバー・メイドと美容師服が最も廉価なのは、スタイルが簡単なため仕立代が安く、毛織地を用いないので生地代も安くあがる。スタイル及び生地の選択によって、各職場の労働に適合できる洋装は、合理的な職業婦人服装であった。スカートは当時の流行によって、すべて短い。(中略)(『第二部』の『第四章 昭和洋装』の中の『一 昭和初期』より)
………………
上記の「現代職業婦人の標準服装」はメイドさんとウェイトレスさんのものだけ抽出していますが、教員の他にもオフィスガール、車掌、新興支那ショップ・ガール、ショップ・ガール、キャッシャー、劇場案内人、美容師も紹介してあります。巻末にはその白黒写真が掲載されていますが、レディース・メイドは黒ワンピースに黒のサロンエプロン、チェンバー・メイドはヘッドドレスに白ワンピース、ウェイトレスは濃い色のワンピースにV字型肩紐のエプロンという、現在のメイドさん風ウェイトレス制服としても充分に通用するデザインで、結構良い感じです。
鳥居千代香『インド女性学入門』新水社
現代のインドに於ける女性の現状を記した書籍。
インドのメイドさんに付いて調べようと思って、漸く探し出した一冊。インドの現在に付いて分かり易く書かれてあり、資料も豊富に表示しています。でもメイドさん関係少しだけだけど。その少ない情報を引用。
………………
インドの上流階級ではおもに、下のカーストの使用人(サーバント)をそれぞれ分業で雇っている。ベアラー(給仕人)、コック(料理人)、ドライバー、チョーキダール(門番)、アーヤ(子守り)、マーリー(庭師)、ドービー(洗濯人)、部屋専門のスウィパー(掃除人)、便所専門のスウィパーといった具合だ。
たとえば高等裁判所の裁判官をしている知人の家は四人家族で、コック、ハウスキーパー、ドービー、マーリー、スウィパーで合計五人の使用人を雇っている。コックとハウスキーパーは常時家にいて住み込みで働いている。マーリーとスウィパーは毎日やってくる。ドービーは一週間に一度やってくる。残りの日はハウスキーパーが洗い物をする。裁判官なので、政府から何人かの使用人を雇う費用が支給されるそうだ。
大学の教師の家でも使用人の姿を見かける。インドでは、女性は結婚して子供がいてはじめて一人前の女性として尊敬を集める。まずは結婚だ。そのため大学生で結婚している女子大生もいる。女性の教師もほとんどが既婚者だ。しかし、彼女たちは家事に煩わされないで研究に没頭できる環境にある。
上流階級、中流上層階級、中流階級、中流下層階級と、それぞれの家で、さまざまな使用人の手を借りて生活が営まれている。だから、夫と共に日本にきたことのある知人の教授夫人が、「いろいろ世界を見てきたけれど、私が思うに、インドの主婦が一番幸せだ」というのも、彼女が家事からまったく解放されて仕事ができることが含まれている。もちろんインドの夫が午後五時以降は家にいることや、出かけるにしても、妻と同伴というようなこともあげられると思うが。
使用人の側から見ると、インドの社会の不公平、残酷さが見られる。毎日トイレ掃除をして各家庭を回って歩く最下層の〈不可触民カースト〉の人々のことを思えば、特にそうである。(中略)(『T 古い習慣にとらわれて』の『家事はいっさい関係ナシ! 「幸せ」な上流階級』より)
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インドでは、上層の階級に属している女性は非常に恵まれた環境下にあるのに対し、下層階級の女性はかなり劣悪な環境下で、時に理不尽な事ですら当然の事として強制されるという状況にある事が分かります。
第四十二回(2004.11.07現在)
サラ・M・エヴァンズ/著、小桧山ルイ+竹俣初美+矢口祐人/訳
『アメリカの女性の歴史 自由のために生まれて』明石書店
移民が始まった十七世紀の少し前から現在に至るまでの間の、アメリカにおける女性の歴史を論じた書籍。『人種の坩堝』と呼ばれる国だけあって、ヨーロッパ系の中産階級と労働者階級、アフリカ系アメリカ人やアメリカ先住民などマイノリティと呼ばれる民族の女性達がどの様な生活を送っていたかが書かれています。
非常に分厚い書籍。後書きにも書いてありますが、割と広域を扱っていますが、やや散漫気味な印象を受けます。主に女性運動に関する情報を扱っているので、メイドさん関係は以外と少ないです。
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文化的な差異は、とくにアイルランド、ドイツ、スカンディナヴィアからの移民にとって、強烈なものだった。女性労働者と都市の貧困階級は移民で占められていた。出来高払いの仕事を受けるにせよ、工場で雇われるにしろ、家事手伝いをするにせよ、彼女たちは、女性にとっての機会がひどく少ない、人が密集した、汚れた都会に住んでいた。男性に比べて貧困にあえぐ女性の割合が高かったことから、そのひどさを推し量ることができる。一八四五年から一八五〇年の間に、ボストン貧困防止協会は移民の女性からの申請を一万四〇〇〇件受けたが、移民の男性からの申請は五〇三四件だった。働く女性の困難を証言するもう一つの証拠は、女性が売春に走る傾向があったことである。一八五九年の調査によれば、ニューヨークで投獄された売春婦二〇〇〇人のうち、二五パーセントが夫に捨てられたか、暴力を振るわれた既婚女性だった。ほとんどは他の仕事をした経験があった。二五パーセントが縫い子、半分が家事手伝いをしたことがあった。四人のうち一人が、仕事を自発的に選んだと主張した。これは、彼女たちが得られる賃金労働の収入が非常に低かったこと、家庭性と女性の「純潔」についての感覚が中流階級のそれとは非常に異なっていたことを示している。(『5 分裂の時代◇1845―1865』の『家庭性の力』より)
………………
若い女性が一番簡単に見つけることができた仕事は、よその家庭で働くことだった。しかし、一九世紀後半になると、そのような仕事は都市以外にはなくなり、家事手伝いとして働く女性は少なくなった。家内生産が減少し、製造業や小売業での就業機会が増加すると、家事手伝いとして働く割合は減少した。その結果、家事手伝いの仕事は地位が低くなり、社会的立場の低い移民、黒人、また西部では中国人男性がする仕事とみなされるようになった。
大半の家事手伝いは若い移民の女性で、とくに祖国でも昔から家事手伝いとして働くことの多かったアイルランドやスカンディナヴィアの人々が多かった。家事手伝いの女性が労働する場では、さまざまな物やシンボルを使って彼女たちの地位の低さが強調された。典型的な若い女性は雇用者の家の裏側か屋根裏にある小さな部屋に住んでいた。一週間のうち午後だけ休憩できる日がある場合もあったが、それ以外の労働時間ははっきりしていなかった。食事は家族が食べ終えた後にとったが何かの用事で呼びつけられるとすぐに食べるのを止めなければならなかった。ある若い女性は「他人の命令に自分の人生を捧げるのは大変なことです。まるで誰かがいつも壁の向こうから自分を監視している状態で、つらいです」と言った。もう一人の女性は自分がまるで機械のように扱われていると不満を述べた。「私の主人はいつも二階の部屋にいますが、ちょっとしたことをやらせるために一日に二〇回もベルを鳴らして私を呼びつけます。夜の十一時までそのベルに応えろと言うのです」。彼女には自由時間が与えられなかっただけではなく、「友達に会う場所も台所以外にはありませんでした。その時私は三〇歳でした。私はその家の人と同じくらい良い家庭の生まれで、教育も受けました。どうしても納得がいきませんでした」。ある若い移民の女性は家事手伝いの肩書きがいつまでもついてまわることに気づいた。「先生も、店の店員も、どんなに常識がある人でも、家事手伝いとはつきあいたくないようです」。
結婚した後にも家事手伝いとして働きつづけた女性の多くは黒人だった。人種偏見に満ちた社会ではそれ以外の仕事はあまりなかったし、黒人の家族はどうしても収入源が二つ必要だった。家族をもち、子どももいた黒人女性は雇用者の圧力にもかかわらず、住み込みで働くことに抵抗しつづけた。これがきっかけで、一九〇〇年以降には日中だけ働くという新しい労働形式が主流になった。黒人の女性は「自分の家に住みたがり、料理人としても家事手伝いとしても住み込みで働くことに同意する者はほどんどいません。働いている場所で寝泊まりすることが自由に反することだと考えているようです」とアラバマ州に住む銀行員は一八八三年に証言した。(『6 金ピカの時代と「母性的国家」◇1865―1890』の『産業都市に住む移民と労働者階級の女性』より)
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生活水準はゆっくりと上昇しはじめていたが、労働環境はひどく危険で、労働時間はひどく長く、賃金はひどく低かった。工場が増え、事務員やデパートで新しい分野の仕事が開かれるに従い、家事手伝いとして働く女性の割合はどんどん減っていった(一八七〇年には働く女性の五〇・一パーセントが家事手伝いだったが、一九〇〇年には一九・四パーセントとなり、一九二〇年には一六・二パーセントになった)。この背景には室内水道管とセントラル・ヒーティング付きの小さな都市型中流階級向けアパートの建築があった。このような家ではもはやそうした仕事のために使用人を必要としなかった。しかし、黒人女性だけは例外だった。既婚の黒人女性は、他の集団の女性より働くことがずっと多かった(一九〇〇年の数値で二六パーセント。既婚白人女性の同じ数値は三パーセントにすぎない)。十九世紀末のほとんどの黒人女性は、南部の農村の農業労働者か家事手伝いであった。北部でも南部でも工場の仕事は一般的に彼女たちに対して開かれていなかったからである。(『7 女性と近代◇189―1920』の『ワーキング・ガール』より)
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家事は昔から労働集約型の大変つらい仕事だった。植民地時代の良妻や地方に住む農家の女性、中流階級の家庭で働く使用人は皆、額に汗を流して、荒れた手で食料を生産し、衣服を縫った。しかし、一九二〇年代に入って、電気や下水設備が大多数の家に普及するようになると(それは、納会外では三分の二以上の家庭に普及した)、従来の仕事の意味も方法も変化した。
変化が急激に起こった原因は、中流階級が増加したために使用人を探すことが困難になったことだろう。もちろん、黒人女性に家事手伝いの仕事しか与えなかった南部は例外である。若い白人女性が販売や事務の仕事に集中してしまい、彼女たちの後任になる移民もあまりいなかった。第一次世界大戦以降の広告では、家庭に使用人がいるという想定はされなくなった。そして、使用人の代わりに電気を使うように宣伝された。(『8 フラッパー、フロイト、ジャズの時代』の『友愛結婚と女性のセクシュアリティの再来』より)
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以上の事から、十九世紀頃まではアメリカのメイドさんは移民がなっていた事、二十世紀に入って移民がこなくなってからはアフリカ系アメリカ人が行っていた事、メイドさんのなり手そのものが減っていった事がメイドさんの数が激減した原因の一つになっている事などが判ります。因みに一八九五年頃撮影された写真の中にメイドさんが写っているんですが、お仕着せはかなりシンプルです。一人だけひらひらした感じだけど、ドレスの装飾が少し変わっていて、個人的に結構好きだったり。
岩本裕子『アメリカ黒人女性の歴史 二〇世紀初頭にみる「ウーマニスト」への軌跡』明石書籍
十九世紀末から二十世紀初頭に掛けてのアフリカ系アメリカ人女性の歴史を、当時起こった運動などを通じて論じた書籍。
アメリカのメイドさんは、十九世紀末までは移民が担い、十九世紀末から大戦が終わる二十世紀中葉まではアフリカ系アメリカ人が行っていた事は、上記の書籍に書かれている訳ですが、そのアフリカ系アメリカ人女性達がどの様に扱われて来たかが述べられています。メイドさんが雇われていた先の男性に手を着けられ、妊娠したら一方的に不道徳と非難され解雇されるのは、何だか万国共通な気もしますが、彼女達の場合は性差別に加えて人種差別が加わるので、かなり苛酷な環境で暮らしていた事が想像し得ます(移民は移民で又差別されていた様ですが)。ではメイドさん関係で良さ気なものを引用。
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「ジェマイマおばさん」の表現は、一八七六年にミンストレルショーの歌「オールド・アント・ジェマイマ」で知られるようになった。定着したのは、ブロードウェイミュージカル『ショーボート』(“Show Boat”一九二七年初演)が映画化され、イタリア系の女優テス・「ジェマイマおばさん」・ガーデラ(Tess Aunt Jemima Gardella)が演じたことが契機だった。南部農園の台所を預かり、パイや煮込み料理などの南部料理を作り、白人農園主の子どもたちの「乳母」としての役割を果たす頼もしい人のよいおばさんのイメージは、黒人男性のステレオタイプ「アンクルトム」や「リーマスおじさん」と通じるものがある。これらは皆、南部白人の目から見た善良な黒人像にすぎない。
黒人女性のステレオタイプは、総じて「乳母・マミー(Mammy)」のイメージである。ジェマイマおばさんの場合は、家事の中でも料理の達人というイメージが強くなってパンケーキミックスへもつながったと考えられる。「感情が穏やかな」マミーと「怒りっぽい」気質を持ったジェマイマという定義がある。南北戦争以前の南部を「古き良き南部」として懐かしく思う南部白人にとって、奴隷制度のあった時代は栄光に輝いていて、感傷にふけるには絶好の時代だった。そのような時代のシンボルとして黒人の乳母(マミー)は白人にとって最も歓迎すべき存在だったのだ。もうひとつの農園で働く黒人女性のステレオタイプは、「サファイア」(Saphire)と呼ばれ「噂好きで、頭は固いが物知り」という性質を持った黒人女性のタイプである。
「マミー」「ジェマイマ」「サファイア」は、南部白人が作り上げた奴隷制時代からの黒人女性のイメージだが、一見善良で白人好みというこの三種のタイプとは全く異なる、悪い黒人少女というイメージのステレオタイプもある。「ジェゼベル」(Jezebel)と呼ばれる。教養はあるが性質は悪く、白人との混血であることが多い。肌の色の薄い黒人女性で、薄い唇、長くまっすぐな髪、細い鼻、細身の身体、など、肉体的に白人の要素を持ちヨーロッパ的イメージがある。白人の雰囲気を持つことで、白人男性たちを性的な魅力で誘惑する悪い女として描かれている。教養はあるとは言っても、博識と言うよりは男をだます能力があると見なされている。
当時、ハリウッドの黒人女優はステレオタイプから逃れることはできなかった。自分の意志に反しつつ乳母の役を演じ続けたハッティ・マクダニエルは、インタビューの中で「なぜいつもメイド役しか演じてこなかったのか」と問われ、「黒人女性の仕事といえば、週給七ドルでメイドになるか、週給七〇ドルでメイドの役を演ずるしかほかになかったから」と答えている。
ウーピーの登場以来、わずかながら黒人女優に重要な役割が回るようになってきているが、彼女たちにとって決して満足のいく状態ではないということは、レナ・ホーンの全盛期とさほど変わっていない状況である。「ジェマイマおばさん」と「ジェゼベル」というステレオタイプは、映画や小説といったフィクションの世界の話ではなく、現実に深く根ざしているのである。しかも、売春かショービジネスか、あるいはメイドかメイド役か、という選択しかなかったという三〇年代や四〇年代からさらに半世紀さかのぼった一九世紀末において、黒人女性は、「ジェゼベル」の悪印象を定着させられるような状況に置かれていた。(『第一篇 南部黒人女性の現実と闘争』の『第1章 一九世紀末のアメリカ黒人女性 ―イメージと実像―』の中の『一 「ジェマイマおばさん」と「ジェゼベル」』より)
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奴隷解放後の南部では黒人家族の大半は農業に従事し、奴隷制時代と変わらない小作生活をしていた。黒人女性の仕事も野良仕事が大半であった。彼女たちにもうひとつ選択肢があるとすれば、それは白人家庭での家事手伝い、いわゆる「女中」と呼ばれる仕事であった。黒人女性は少女の頃から家事を仕込まれて、白人家庭に奉公に出た。その仕事は低賃金で、常に奉公先の主人である白人男性からの性的被害にさらされていた。住み込みで働きに出た娘たちは、離れて住む母親に守ってもらうこともできず、ましてや家庭内の白人女性も頼りにはならないまま、白人男性の犠牲になっていたのである。
「奥様のご主人がキスをしようとしたのを拒否したために私は職を失った。ご主人はこれまでいつも当然のように使用人にそうしてきたらしいが、私は若くて結婚したばかりで、私がしようとしたことがよくわからなかった。……この地域では黒人女性定説は守られてはいなかったのだ。家に戻り、夫にこのことを告げると、夫は私を侮辱した白人男性に文句を言いに行った。しかし反対に夫はののしられ、殴られ、逮捕されてしまった!」と訴えたのは、一九一〇年代に南部で奉公に出ていた黒人女性である。彼女はこの事件後、法廷で証言したが、彼女の夫は罰金二五ドルを払わされることになった。裁判官からは「本法廷は、白人の言葉に逆らうような黒んぼの言葉を決して取り上げはしない」とも言い渡された。これが二〇世紀に入ったばかりの南部の現状で、史料には訴えた夫婦のその後に関する言及はないが、命の保証があっただけまし、と考えるべきかもしれないような社会状況であった。(『第一篇 南部黒人女性の現実と闘争』の『第1章 一九世紀末のアメリカ黒人女性 ―イメージと実像―』の中の『二 南部黒人女性のイメージ』より)
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南部社会ほどの厳しい状況ではなかったとは言え、北部でも、社会の底辺で生きる黒人女性にとっては、暮らしの厳しさ、身の危険ということでは南部に住む黒人女性たちと共通する問題をかかえていた。一九世紀末において、黒人人口の九割が南部に暮らしていた。残りわずか一割が北部に住んでいたことになる。二〇世紀初頭の北上時代を迎える前であるため、南部からの移住者は少なく、北部に生まれ育った女性たちということになる。
南北戦争以前の北部で、黒人女性の大半が就くことのできた職業はふたつだった。まず農業、つまり野良仕事である。もうひとつは家内労働である。その内容は、お手伝い、洗濯女、料理人、お針子、子守、美容師、日雇い、などである。北部諸都市において、召使い的労働以外の労働領域では、黒人男性に対する雇用差別が厳しかったために、黒人男性はなかなか職に就けなかった。女性の方が職種を選ばず、仕事に就ける場合が多かったために、必然的に黒人家庭の家計を支えるのは女性ということになっていた。南北戦争後は、このふたつの職業にもうひとつ、工場労働が加わる。
一八九〇年の国勢調査は人種や肌の色を確認した最初の調査だった。「有色の」という項目には、先住民や中国系の女性も含まれたが、白人女性と区別することは可能であった。この調査では、九七万五五三〇人の有色女性が就労していたが、その内訳は三九%が農業、三一%が料理人、ホテルの部屋係といった家内労働、一六%が洗濯業、三%弱が工場労働となっている(中略)。
仕事の内容に関しては、南部の黒人女性たちと特に異なることはなかった。お手伝いとして白人家庭で働く場合、南部との違いは、住み込まず、通いになることだろう。労働と私生活を分けることができた点では、公私の区別はできた。しかし、白人家庭内での白人男性からの性的被害は南部と変わりはなかった。一九三〇年代になった頃のことだが、不論楠で「奴隷市場」(slave market)と呼ばれた、家事手伝いを探す市場に立った黒人女性の証言がある。「一日一ドルという日給を支払うことを嫌がる白人女性主人は、金がなくなった盗んだと[私に]ぬれぎぬを着せた。……また別な男性は、奴隷市場に来て妻が病気だから家事を手伝ってほしいと仕事を持ちかけておきながら、家に行くと妻はいなくて性的関係を強制してきた」と語っている。時代は二〇世紀に入っても、また場所は北部であったとしても、一九世紀末の南部の黒人女性の状況と少しも変わらない現実であった。
同じ黒人女性でも、ウィリアムズのように、北部の恵まれた環境で直接屈辱的な差別を受けることも少なく、知的にも経済的にも豊かに育った黒人女性知識人の存在の方がアメリカ社会では知られていなかっただろう。こうした知識人たちと比較して、北部においては家内労働や工場労働に従事して黒人家庭の生活を支えている女性たちや、南部では野良仕事や白人家庭への住み込みで働く女性たちとの間には大きな格差があったということである。(『第二篇 北部女性運動の運動と活動』より)
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以上、長々と引用しましたが、アメリカに於けるメイドさんの内情が窺い知る事が出来ます。
辻内鏡人『アメリカの奴隷制と自由主義』東京大学出版会
アメリカの奴隷制廃止を、十九世紀の時代精神に即して分析した書籍。奴隷制廃止に至る歴程が、人道的、偽善的な慈善事業などではなく、主に北部と南部のイデオロギーの違いから生じた結果である事を論じています。
かなり小難しい本です。上記の書籍よりもより専門的な事柄を扱っており、特に経済学的な側面で語っているので、ある程度勉強した人向けの書籍です。メイドさん関係では直接的なものはありませんが、解放後作製されたブラック・コードと呼ばれる解放黒人に対する一方的な法から、奉公規定に関する法律に付いての項を引用します。
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1 奉公条項
さきにふれたように、戦後南部においては、労働力不足はもっとも深刻な社会問題のひとつとなっていた。そのような状況のなかで、早期に労働力を創出するために働き手として年少者を生産に就かせる法が定められた。奉公 apprentice に関する規定は、このような未成年の黒人を対象にして制定されたものである。
奉公規定自体は南北戦争以前から存在しており、メリランド州では、「二一歳以下の男、および一八歳以下の女の自由黒人は、奉公人として、白人のもとに拘束されるものとする」(MD−1,31)という法が戦争後も効力をもっていた。そのため、戦後あらたに制定された州法の奉公規定は、メリランドの例にならったものが多くなった。(中略)
奉公人の受け入れが決まると、主人はその奉公人に衣食と住処を与えることを約束する証文を検認裁判所などに出すことになる。これは、奉公人に対する保護規定であるが、じっさいには、「親や保護者は奉公人を連れ戻すことができない」(FL−6,6)ばかりか、主人には、体刑を課す権限が認められていた(AL−4,3;TX−1,6)。要するに、親が子供を扶養できないと判断すれば、その子供を親元から引き離して、児童労働(もしくはその予備軍)として陶冶していくことが図られたのである。
2 労働契約条項
奉公規定が、どちらかといえば、あらたな労働力を創出することに重きをおいた法であるとすれば、すでに労働能力のある働き手を生産の場に就かせることをねらった法は労働契約規定である。(中略)
そのサウスカロライナ州では、サービスないし労働の契約を交わす黒人は使用人 servants と呼ばれ、「主人 master と使用人との契約は文書によるものとし、白人の証人による認証と、地方裁判所の判事かまたは下級判事の証人を得るものとする」、「就業期間は契約書に記されるものとし、記載なき場合は十二月二十五日まで」(SC−4−5)とされた。(中略)
3 労働力引き抜き禁止条項
労使関係の規定を考察するさい、ブラック・コードにもっとも特徴的なことは、労働力の引き抜きに対する禁止・罰則条項が多いことである。たとえば、アラバマ州法には、「契約を交わした使用人が、契約期間の終了する前に、他人のもとで仕事に従事していることが発覚したとき、……(契約を結んでいないこの第三の雇主は)使用人を手放さなければなら」ず、そのようにして労働力を引き抜いた者は、「軽罪を宣告され、五〇ドル以上、五〇〇ドル以内の罰金刑」に処せられた(AL−2,1)。(中略)
このような厳しい規定は、直接黒人を対象としたものではなく、どちらかといえば、雇主の側を拘束するものである。すなわち、労働力の調達に苦慮する雇主同士が、黒人労働力の奪い合いから紛争を起こさないように、労働力の引き抜きを禁止したのである。ここからも、戦後南部の労働事情がいかに差し迫ったものであったかが察せられる。この規定は、労使関係の形成が困難を極めた状況のなかで、その脆弱な関係を補完するものとして、不可欠のものであったのである。(『第四章 南北戦争後の解放黒人をめぐる法』の『第二節 労働関係法』より)
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その他にも就労に関する束縛や、教育による黒人への“白人中産階級のイデオロギー”注入など、解放後も奴隷であった時と変わらぬ苦労を背負わされてしまう訳です。
第四十一回(2004.10.31現在)
染田秀藤/編『ラテンアメリカ史 植民地時代の実像』世界思想社
十五世紀末から十九世紀に掛けての、植民地征服時代のメキシコ、ペルー、ブラジルの歴史を分かり易く論じた書籍。
十九世紀を語る上で忘れがちな存在の植民地に付いてを調べるには良い書籍です。鉱山やプランテーションの労働奴隷に付いてを論じていますが、屋内労働奴隷に関する記述も一カ所だけですがあります。
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奴隷は、人種的には黒人(それには、アフリカ生まれの者とブラジル生まれの者とがいた)と混血者(ムラート)に、文化的にはボサール(到着後間もないアフリカ生まれの黒人)とラディーノ(ポルトガル語を話し、少なくとも外見上はキリスト教を受容した者)に分類される。家内奴隷のほとんどは、ブラジル生まれの黒人(クリオウロ)あるいは混血者であった。ポルトガル人の基準では、より肌の色の薄く、より植民地社会に同化している者のほうが価値が高いとされた。
砂糖プランテーションの奴隷は、家内奴隷と製糖工場・砂糖キビ畑の労働奴隷の二つに区分される。家内奴隷は全奴隷の五%程度で、圧倒的多数は労働奴隷であった。家内奴隷、たとえば小間使い、乳母、女中、料理女などはプランテーション所有者の大邸宅に居住し、「温情主義的」な扱いを受け、その待遇は労働奴隷に比較すれば、恵まれていた。パーティの日に、着飾って、料理や飲み物を給仕するのも彼女らの仕事の一つであった。(『V ブラジル』の『第二章 「砂糖文明」と黒人奴隷の抵抗』より)
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恵まれた、と言っても比較の問題な訳ですが、それは労働奴隷の扱われ方の酷さからすればまだ家内奴隷の方がまし、という状況を察すれば理解出来るかと思います。
アリス・リュツキンス、中山庸子/訳
『スウェーデン女性史2 女、目覚めはじめる 十八世紀からフレドリカ・ブレーマーまで』學藝書林
福祉先進国、男女差別の無い国として理想化される現代スウェーデンだが、そこに至るまでには、苛酷な自然と社会の偏見に晒されながら生きた数多くの女性達がいた……古代から現代に掛けてのスウェーデンの女性史を、三巻に分けて論じた書籍の二巻目です。
スウェーデンと言えば、今や福祉国家として有名な国ですが、この書籍はそこに至るまでに、他のヨーロッパの国々と同じ様に組まれた、男性に優しく女性に厳しいという二重規範の社会制度を女性の側から少しずつ解体していったその歴程を分かり易く書いた一冊です。無論名も無き多数のメイドさんに取っても、当時のスウェーデンは暮らし難い場所であった様子がうかがえます。
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離婚裁判では、グレタがこの水商売の女マダム・サルシュテト宅ですごしたことがかなり問題にされた。証人が大勢召集された。しかしグレタが「だらしなく」しているところを見たものは一人もいなかった。証人の話はどれもこれも彼女には有利な発言であった。ということは彼女の行動は当時の考えからみても、それほどかけ離れたものではなかったということか。よくあるケースだが、この物語もきっと、とにかく階級差が重要な意味をもっていただろう。女中の立場でありながら牧師の娘を非難しようなどとはだれも考えつかないのである。たとえば、マダム・サルシュテトで手伝いをしている女の一人は、「ベンセリア奥様の生活についてはいいこと以外、なにも知りません」と証言している。(中略)(『どこへいった啓蒙思想』の『風変わりな牧師の娘、グレタ・ベンセリア』より)
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一七三四年法では、「結婚の約束もしていない密通、あるいは不義など禁じられた関係のなか」で生まれた子は、「自分で食べていけるようになるまで、父あるいは母から必要最低限の食事をもらい、育てられるべきである」。
必要最低限というのは実際にはごくわずか、ということだったのである。貧しい未婚の女中に、どうやって最低限の糧を得ることができただろうか。子どもが七歳になると、「自分で食べていける年になった」とみなされた。(『どこへいった啓蒙思想』の『一七三四年法における女性』より)
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奉公人暮らしはそれほど魅力的な食い扶持稼ぎではない。ご主人、奥さん次第でどうにでもあつかわれる。刃向かえば「適切な」お仕置きをいただくことになるし、場合によっては就労証明書に勝手なことを書かれてしまう。適切な仕置きと不適切な仕置きの境目はどこにあるかは、個人の勝手な判断でどうにでもなっただろう。刃向かう、というのもどういうことか。売りことばに買いことばかもしれないではないか。いじめられた奉公人が、つい生意気な口答えをしてしまったりすることは充分考えられる。食事の量が足りなくても我慢させられたり、暖房もない部屋で震えながら一つのベッドをだれかと分け合って使うことを強いられたりしたら、奉公人はどんなにつらかろう。ある日キャベツスープが出たかと思うと、次の日もキャベツスープの暖め直し。塩漬けニシン、ビールに合うチーズ、パン、塩漬け豚肉入りの豆スープ。そしてまた豆スープの暖め直し。単調な繰り返しだ。ちょっとの変化もつけてくれやしない。いつ仕事が始まっていつ終わるのか、労働時間は決まっていない。が、四時になったら近くの井戸で水をくんでこなくてはならない。(『どこへいった啓蒙思想』の『拝み倒しと合法・非合法レストラン』より)
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コケティッシュであることがもてはやされたこの時代、若い女の子たちは頭、髪の毛を飾ってできるだけ魅力的にしたがった。一番一般的な飾りは凸凹紐で、髪の毛に巻いていっしょに編み、肩まで垂らすのだった。次はスモーランドからのリンネのレポートをみてみよう。「女中たちは頭になにもかぶっていない。髪の毛は分けて金色の布バンドでくくっている。外側には黒い模様編みの端布を使っており、その端には銀色に輝くバンドが縫いつけられていて、そのバンドの尻尾は肩胛骨まで垂れ下がっている。銀色のバンドが頭のてっぺんに鎮座している。それは内側に入れ込んで留めてある。留めた部分はしたにも垂れて娘の肩にふれている。だがもう一方の留めはそれほど長くはない」。(『どこへいった啓蒙思想』の『農民の生活』より)
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すでに述べたように、女性が家庭の外に出て働こうとすると、まともな仕事はあまりなかった。良家の子女向きの仕事ともなれば、なおさらなかった。以前は市民階級や牧師階級の娘たちには「小間使いの少女」として働く、つまり家政婦の仕事があった。しかし、この可能性も最近少なくなった。「下女たちが小間使い女として採用されるようになったので、われわれの仕事がなくなってきた」と、この主婦の口からも苦言が出ている。(『独自性はあるがそれ自身の価値はもたない性、女』の『不幸なスウェーデンの主婦』より)
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(中略)王の従姉妹で公爵カールの妻、ヘドヴィク・エリサベト・シャルロッタは、冷静な観察眼をもってせっせと日記を書いていた。その彼女によると、使用人までが絹のスカートやレースの肌合いが豪華なペレリン編みを着ていたというが、そこまでかどうかちょっとこれは眉唾ものである。名門の家では、お茶を運んだりする女中は絹のドレスを着ていたかもしれない。しかし普通の家の家政婦や女中たちはウールとか麻の服を着ていただろうし、ウールや麻の原材料はかれらの給料替わりになっていたことを、ここで強調しておきたい。(『光が助けてくれた』の『服装』より)
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攻撃は続く。シェルグレン、アンナ・マリア・レングレンが書いた風刺文が載った八〇、九〇年代のストックホルム・ボステン紙がその頂点を飾る。当然ながら、市民階級から成り上がった女性や裕福に暮らす貴族女性たちが安全に批判の外におかれるはずがない。ましてや市民階級の女性においておや、である。彼女たちのイメージは、怠け者で噂好き、地位の上下に細かくて、贅沢好みは病的なほど、そのうえ女中をいじめ抜くいやな奴、と相場が決まっていた。
一七八一年、ストックホルム・ボステン紙に次のような記事が載っていた。「喧嘩にはなれているから叱られても平気。髪の毛や耳を引っ張られるのも慣れたもので、よく気がつく穏やかで気のいい女中……」。(『光が助けてくれた』の『市民階級への非難』より)
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自給自足を原則としていた当時のこと、領主家の主婦ともなれば肩の荷は非常に重く、現金収入の道はほとんど閉ざされていた。主婦がかつてどんな良家のお嬢さんだったとしても、自給自足の家計管理は、その家の主婦の仕事であった。とはいえ、当時、奉公人ならいくらでもいた。領主家であれば八人とか一〇人の奉公人がいて、それぞれが決まった仕事をまかされていた。たとえば中くらいの人数をかかえた家の場合、御者、下男、事務係、家政婦、掃除婦、料理女、台所の下働き女などがいたのである。こうした奉公人にはきっちりした上下関係があって、相互に分断されていた。たとえば、家政婦と台所の下働き女の身分差は歴然としていて尊重すべきものであった。
服はだれもが自分の家で縫い、修繕した。女中が器用かどうかで、その家の女性たちの生活上の便利度はおおいに左右された。いい奉公人がいない、という声が強かった。ダーグリグ・アレハンダ紙に広告して、「見栄っぱり」でない、いい人にきてもらうこともあっただろう。(中略)(『光が助けてくれた』の『牧師の妻と教会の生活』より)
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メイドさんネタとしては珍しいスウェーデンなので、少々多めに引用してみました。後、一七六〇年に内務省の役人としてストックホルムにやってきたグスタフ・ハレンシャーナという人物が書いた『わが恋愛遍歴』が取り上げられていますが、これはスウェーデン版『我が秘密の生涯』とでも言うべき回顧録です。
アリス・リュツキンス、中山庸子/訳
『スウェーデン女性史3 女、自分の道を探す 自由主義から現代まで』學藝書林
上記と同じく三巻目。こちらは十九世紀から現代に掛けてを扱っています。
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一八三三年、これまで同様、家長は奉公人の年齢に関係なく体罰を加える権利があるという施行法がだされた。体罰を与えたのは、奉公人が怠けてだらしないとか、仕事上の命令を聞かない、生活態度が悪い、といったときであった。一八五八年にやっと、この施行法は変わって、年少者以外に体罰を与えてはいけないことになった。年少者こそ自分を守るすべをもたないのだが……。(『負けいくさ』の『新しい法令』より)
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戦慄がはしるのは、未婚の下女が農家の主人に生殺与奪の権を握られていたことである。下女は主人の「法的な保護」のもとにいた。もし気にいられなければ、あるいは怠けているとされたり、反抗的だったり、あるいは妊娠したりしてクビにされ、勤務成績証書を書いてもらえなくなった。これは致命的で、次の仕事を見つけることができなくなり、次の「保護人」になってくれる人もでてこないという結果を招く。そうなると、たいがい浮浪者として捕らえられ、感化院などにいれられた。
この時代、貧しい市民階級の娘の場合そうでもないが、嫁にいかされることは下女にとってはおおいにうれしいことだった。それでも地方で働く下女にとって、結婚は期待をかけるにはあまりにも悲惨なことが多かった。市民階級の妻などまだいいほうである。臨時雇いの作男と結婚した女や、貧乏な小作人の妻になった者などは大変だった。非人間的なきつい仕事が待っていた。その代わり、結婚していれば、いつ捨てられるかわからない不安はないし、父なし子の母親になるのではないかという不安も感じないですんだ。下女にとって結婚は、やはりある程度安心感を得られるものだったし、また、愛する人といっしょに暮らせるしあわせかもしれなかった。社会階層のしたのほうになればなるほど、結婚相手を選ぶ自由があった。
これまでと同様、領主や農園主は自分の家の奉公人に対して法的な責任を負っていた。下女に関して言えば、かれらは下女が妊娠していないか早めにチェックする必要があった。子殺しが起こらないようにするためである。だから、裁判では、かれらが証人として呼びだされた。監督不行き届きがあったとなると、罰金を払わされたから、たいがい、娘が妊娠しているとはみえなかった、と主張した。下女の友人たちはともすれば逆に熱心で、かれらが証人となって、下女の多くが殺人罪に問われたのである。
養子に行った子や施設に預けられた子で、生後最初の一年を生き延びたのは、ほんの数パーセントだけであった。万一生き延びた場合、その子は五歳になったら働かされた。児童労働はその子にかかったぶん、つまり部屋代や食事代を支払うものとみられていた。町の女の子はよその家庭に入って、幼いながらも下女として働かされた。乞食をして命をつなぐ女の子も大勢いたが、その子たちは例外なく、町をうろつく売春婦となるのだった。地方では家畜の世話をして働いた。
田舎から都会にでてきた娘は、つまずいてしまう例が多かった。経験がないものだから危険を知らず、だまされた。男は狼。市民階級や貴族の娘と違って、田舎からでてきた処女は、またとないカモだった。特に市民階級では、経済的な理由で婚約期間が長かったし、婚約者の娘にふれるのはタブーだったので、この期間、下女やプロ、あるいはセミプロの売春婦を相手に遊んだ。(『負けいくさ』の『貧しい国スウェーデン』より)
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五〇年代、六〇年代には称号の変更がいくつかあった。貴族の娘たちにはショックだったろうが、一八六四年に四階級制度が廃止されてのち、これまで称号的に「マムセル」と呼ばれていた娘たちは、「フルッケン」と呼ばれることになった。(中略)
ほかでも階級移行現象の一端が認められるが、その一つが、下女は以後「ユングフルー」と呼ばれることになったことがあげられる。これは社会を混乱におとしいれんばかりの革命的変革である。少なくとも新聞の反応ではそうである。
「フルッケン」という称号は、もともと王家の王女たちに使われていた。クリスティーナ女王は、スウェーデン国のフルッケン・シャスティンであった。さまざまな現象に言えることだが、称号も、徐々に社会階層のしたのほうで密かに使われるようになり、すでに十六世紀には、未婚の貴族女性ユングフルーに対して一般的に使用されていた。十七世紀には「伯爵夫人」とか「男爵夫人」という称号が、「フルー」称号にとって替わった。そこで牧師階級や高級市民階層の妻たちが「フルー」称号を受け継ぐかたちで使うようになり、下級市民階級の妻たちには「マダム」を使って呼ぶようになった。農民の妻たちは「モー」と称され、それがまたのちに「ヒュストルー」と変わった。(『負けいくさ』の『階級移行の動向』より)
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また、いわゆる家政婦結婚があった。つまり、男寡とか独身男性が家政婦と関係をもつのである。その結果、二人のあいだに子どもがたくさん生まれる。そしてその家政婦の色香が褪せてくるころ、男は他の女と結婚したくなって、なにも持たせず彼女を寒空に追い出す。感謝のことばどころか、彼女の背には酷なことばが飛んでくる。(『大変革』の『高級娼婦カメリア族と手頃な女たち』より)
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満足してにっこりするのは、お迎えの馬車に潜りこんでシートでぐったりするときだ。残されたお手伝いさんたちは、それほどうれしくない。掃除が待っているから。また朝早く起きて持ち場につかなければならない。給料はお粗末だった。年給が百クローナと、仕事着を何着か支給された。それでも、家の主人らにはもう、殴るなどの仕置きをする権利はなかった。(『行き着いた男社会』の『家族で楽しむ娯楽』より)
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もし、逆のことが起きていたら、つまり、牧師の息子が女中に手をつけて妊娠させたとしたら、きっとその娘はクビになっただろう。運がよければいくらか金ももらえて……。しかし、息子は責任をとる必要もなく、普通に生活を続けられたことだろう。(『行き着いた男社会』の『市民階級、その結婚と女性の抑圧』より)
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何処の国でもメイドさんの扱いは酷いものですな。
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