
☆図書館にでも行きましょうか。☆
☆図書館にでも行きましょうか。☆
万年金欠な小手鞠萌はよく図書館に行く訳ですが、そこでよく借りる本の中でも、面白かったり資料としてなかなか良い物を紹介するコーナーです(安上がり)。
因みに基本は“十九世紀”。本物のメイドさんが生きていた時代っすね。でも読んでいる本、かなり偏りあり過ぎです。しかも実はあんまり小説読まない事、バレバレ。大層なもんでは無いけれど、ある意味“裏ヴィクトリアン・ガイド”かも(^_^;)。
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第八十五回(2005.12.23現在)
福田真弓/編集者『「主人」ということば 女からみた男の呼び方』明石書店
夫の呼称『主人』に付いて聞き取り・アンケートを中心に論じた書籍。
今でこそ主人という言葉は夫を呼ぶ時に使われますが、実はそれは元々女主人である妻が女中さんに対して夫を呼ぶ時に使われていた言葉だそうです。
………………
私たちの作業の出発点は、津島佑子さんの文であった。ごく短い指摘であるが、非常に示唆に富んでいる。今までこの問題については、最近の日本語で夫を「主人」と呼ぶのに反対し、違う言い方をしようではないかと提案するだけなのだが、津島さんのこの文は、いつから、何故そうなってしまったか、ということを指摘している。その点では、多分、これが唯一のすぐれた指摘ではあるまいか。
津島さんのこの文は、女にかかわる言葉づかいが全体としてどのように変化してきたかを、明治時代から現代にいたるまでの小説を通してさぐっているのだが、その最後に、女が「夫」を呼ぶ呼称について次のように述べている。
「それでは、自分の夫を人に言う時には、どう呼んでいるか、を見ると、大正、昭和のはじめの作品では、現在多く使われている「主人」「ダンナ」と言う言葉が全く見られない。漱石では、「宅(うち)の人」「良人(うち)」であり、下女に対して夫を指して言う時だけ、「御主人」と呼ぶ。逆に夫も、「妻君」「妻(さい)」だけであり、下女に妻を指して「御奥さん(おくさん)」と呼ぶ。……いずれにしろ、妻が夫を指して人に言うのに、「主人」「ダンナ」という、もとは雇用関係がある場合にのみ使われていた言葉が現在、なんの抵抗もなく使われるようになっていることは、夫婦の認識が保守化しているからなのか、とも思えてくる。」(朝日ジャーナル編『女の戦後史U、一九八五年、朝日新聞社、二六九頁』)
もしも彼女の観察どおりだとすれば、夫を「主人」と呼ぶ呼び方は、戦前にはまったく見られず、比較的最近になって急速に一般化してしまった、ということになる。戦前においても「御主人」「御奥様」という言い方はあったが、それは、たとえば漱石の小説に見られるように、封建的な身分関係においてのみ用いられていたので、つまり、中流(当時の「中流」はかなり少数の金持階級であった!)以上の、家庭的に使用人(「下男」「下女」!)が存在する家庭において、その使用人(あるいは出入りの商人等々)に対してのみ「御主人」「御奥様」なのである。それは、一家の「主人」、一家の「主婦」という意味であった。そもそも現代のような核家族ではないから、一家を構成する人数は今よりよほど多かった。その多数の人々が構成する「家」全体の「主人」であり、「主たる婦」なのである。だから、結婚して夫になったからとて、一家の「主人」になるとは限らない。若夫婦が親たちと同居していれば、若い夫はまだ「主人」とは呼ばれず、せいぜい「若旦那」にすぎなかった。老父がすっかり引退してしまってはじめて(「御隠居」)、若旦那が「主人」になれる。「姑」と「嫁」の間で、「主婦」の「座」をめぐって確執がある。などというのも、昔の家制度における「主婦」の位置をよく示している。
その言い分が、身分関係を離れても、他人の夫や妻を呼ぶ場合に、一つの呼称として用いられることになる。一人の女性に対して、その人の夫を「御主人」と呼ぶとすれば、それは、あなたの御一家の御主人、という意味である。だから、それは必ずしも夫婦関係を意味しない。「下女」に対して、「御主人はご在宅ですか」と聴けば、それはむろんその「下女」の夫を意味しているわけではない。いや、それどころか町の老人仲間の一人が「若旦那」に通りがかりに出会って、「これからおたくの御主人に会いに行くところだが、ご在宅かね」ときく会話も成り立つ。
そういうものの言い分が、どうして、現在になると、単に夫という単語と同義語になってしまったのであろうか。
ただし以上は、津島さんの観察が正しければ、という前提である。そこで私たちは、これを出発点として、一つの見込み捜査を行うことにした。つまり、一時代前までの「下女」「下男」まで存在する裕福な家庭での言葉づかいが、ほとんどすべての日本人の言葉づかいにまで拡張されてしまったのは、「中流」意識の一般化と関係しているのではなかろうか。現在の日本人の九割以上が、実際の生活水準はかつての中流とはとても比べものにならないのだが、自分は「中流」だと思っている。もはや、「御主人」などという言葉を支える封建的な身分関係や家制度は崩壊してしまったのに(まだまだその残滓は残念ながらかなり隠然として強力にひそんでいるけれども、それでも、戦後の民法の改革が家制度の崩壊をもたらした効果は、大きかったと言わねばなるまい)、そして、「一家の主人」などと言うにはいささかおおげさにすぎるほどに、各家庭は小さく核家族化してしまったのに、かつてはそんな言葉づかいにはまったく無縁であった大衆も、中流的な言葉づかいばかりは我が物にしようとして、ともかく結婚すれば夫は「主人」で妻は「奥様」ということにしてしまった。(『■第五章 日本人はいつから夫を「主人」と呼ぶようになったのか』の田川建三『中間報告 その一 ―大正デモクラシー―』より)
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戦後になって大衆が中流意識を持ち始めた事が、現在の夫を『主人』と呼び始めた事に繋がっている様です。更に言えば、丁度この頃から女中さんが完全に払拭された時期でもあります。
三橋修『明治のセクシュアリティ 差別の心性史』日本エディタースクール出版部
明治期に形成された日本人の思考の枠組み、それはセクシュアリティ観、都市下層社会観、家庭観の三つの観念と、その相互連関性を浮き上がらせる事で見えてくる。そして、その枠組みは、形を変えて今も日本人の意識化にあるが故に、極めて今日的な問題を提起する事になるのである。
明治期に於ける思考の枠組みを、セクシュアリティ観、都市部の下層社会観、西洋から輸入された家庭観の三つで論じた書籍。女中さんに関するのは、この内セクシュアリティ観で、彼女達がセクシュアルな対象として見られていた事が述べられています。
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「女中」とは、家の中の下働きの女性の称である。江戸期においては、上層階級の「乳母」と除けば、他人の家の中で下働きをする女性は、川柳などでは「下女」と総称されていたが、実際にはその呼称は多様であった。明治期になると、そうした女性のさまざまな名称にも変化が生じてくる。江戸の末期に広まったと考えられる「おさんどん」とは、下女の中でも台所仕事専業の女性の称である。明治の中頃までは、まだこの呼称も生きていた。その「おさんどん」が、徐々に「女中」に替わっていった。かつては御殿女中と言われた宮中、将軍家の下働きの女性の称であった「女中」が、婦人を敬って呼ぶ称から娼妓を敬っていう称を経て、明治期には、料理屋・旅館や一般の家の中で主として台所仕事をする女性の称へと転化してきたのである。鴎外の作品の中にも、必ずしも明快な区別なく、この「女中」と「下女」さらには外の名称で呼ばれる家の中の下働きの女性が登場する。しかも全て、性的な意味合いと関わってである。(『第一章 明治期セクシュアリティのパノラマ』の『1 鴎外の『ウィタ・セクスアリス』に見るセクシュアリティ』の中の『後家・継母・女中』より)
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とはいえ、すでに「家庭」というものが、欧米においても重要な観念になりつつあることを知っていた少数の人々がいた。穂積清軒は、『家庭叢談』の発刊された同じ年の五月にビートン夫人の本を翻案して『家内心得草――一命保家法 全』という題で出版している(東京書林 青山堂)。原著の題名はThe Book of Household Managementであるから、その後に定着した用語を用いて翻訳すれば『家政読本』ということになる。しかしこの時点では、「家政」という言葉はない。
それにしても、一八六一年に本国で出版された大部の本に注目して、紹介するあたりの機転には感心する。しかも、千数百頁になんなんとする原著の中から日本の読者向けになりそうな部分のみを選び出し和綴じの薄っぺらい本に仕立て上げたのは、立派としか言いようがない。林望氏が『イギリスはおいしい』でさんざんからかっているように、原著には料理に関する記述が多いが、穂積は、全くそれには関心を示していない。その一方で、ビートン夫人が冒頭で説いている「ミストレスは早起きでなければならない」という部分は、しっかり翻訳されている。いや、翻訳という語は実は正確ではない。翻案というべきであろう。たとえば原著には、「主婦」とは訳せない「女主人」ともいうべきミストレスが雇人をどのように管理するのか、彼等に対する平均の年賃金は幾らかを説明している箇所をみると、男女別にそれぞれ十三種にも及ぶものである。当時のイギリスにおいてさえ、普通の有産階級家庭にそれほどの雇人はいなかったであろうが、穂積は、一気に奉公人と召使の項目をたててまとめている。(中略)(『第三章 家庭という価値』の『1 ホーム・スウィート・ホーム』の中の『文部省と福沢諭吉の「家庭」』より)
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日本の女中さんとイギリスのメイドさんの意外な接点、ここにあり。
矢野久『ナチス・ドイツの外国人 強制労働の社会史』現代書館(叢書 歴史学への招待)
ナチス支配下のドイツに於ける外国人強制労働を格にして、周辺に強制収容所やホロコーストを置いて考察した書籍。
前回の『アンナとロッテ』を受けて見つけた書籍。第二次大戦下のドイツに於ける外国人労働者の強制労働を論じています。偶々メイドさんに関する情報が載っていたので借りました。
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ソ連民間人に対するドイツ人労働者のこうした好意的評価は、ソ連女性の家事奉公人に対しても見られます。この場合、評価主体はドイツ人労働者ではなく家事奉公人を雇っていたドイツ人家庭ですが、ソ連人女性の家事奉公人と直接接触することによって判断しているという点で、労働の場での直接的経験をもつドイツ人労働者と共通性をもっています。ソ連人女性の奉公人を雇っていたドイツ人は、彼女たちを「従順で、勤勉で向学心がある」ものとみなし、彼女たちを「優秀」と褒めていたのです。そればかりか、規則を破ってでもソ連人女性を良好に扱っていたといいます。それに対してドイツ人の娘たちは、ソ連人女性と「同じ地位につきたくない」と思い、家事奉公を拒否していました。ドイツ国民はソ連人女性の家事奉公人が場合によっては良好に扱われていることに立腹しており、SDは忠告の必要性を強調していました(四三・一・一一報告)。(『第7章 第二次大戦下ドイツ国民の外国人労働者像』の『第二節 労働の場――直接的経験』より)
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自分より下層に位置すると考えられていた階層の女性がメイドさんになる事で、元々メイドさんになっていた女性達がメイドさんという職業から離れていく事が伺えます。
第八十四回(2005.12.18現在)
テッサ・デ・ロー/著、戸谷美保子/訳『アンナとロッテ』日テレ
幼い時に引き離された双子姉妹のその後の波瀾に富んだ人生を、それまでの小説ではあまり書かれていなかった、第二次世界大戦中ヒトラー政権下に於ける一般ドイツ人の苦労を描いた小説。
片やオランダの中流階級の家庭に引き取られ恵まれた生活を送り、片やドイツの貧しい親戚に引き取られ無給の労働力として扱き使われる日々。ヒロインは一応双子姉妹なのですが、ドイツに引き取られたアンナの方が主人公の様な気がします。彼女は若くして親戚の牧場で家畜の世話などをし、年頃になるとメイドさんとして奉公に上がり、そして赤十字の看護婦として従軍していきます。その苦労は並々ならぬものですが、後に再会する彼女の妹は、彼女がドイツ人であるという理由で彼女を許そうとはしません。自身も引き取られる際、病気で寝込んでいなかったなら姉と一緒に農村に送られて同じ様な生活を送っていた事だろうに、その頑なな態度を見てると、余りにもアンナが不憫に思えます。
メイドさんものとしてもなかなかですが、文章が若干分かり難いです。第二次世界大戦下のドイツのメイドさんがどの様な生活をしていたかが垣間見られます。
岡野幸江/編『アンソロジー 女と生活』ゆまに書房
明治・大正から昭和初期に掛けて女性によって書かれた評論・ルポルタージュ・エッセイ等の単行本の中から、時代の証言として価値の高いものを精選して本文を復刻したシリーズの中の、女性と家庭生活に関するものを集めたアンソロジー集。
『女性のみた近代』と題するシリーズもので、女性と家庭生活に関する記事を紹介したアンソロジー集です。家庭生活に絡んで女中さんに付いても幾つか紹介されています。
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女中の主婦に對する不平
麻布 百合子
私は或る銀行員の家庭に小間使をしてゐるものでございます。不平を申せば惡口にも聞こえますが、ありのまま心のままを書かせていただきます。五人の女中は朝四時半に床を出ます。そして、めいめい定められた部屋を掃除いたします。廣いお家ゆゑ二時間かかります。そのうちにお子樣が御起床になります。六人のお孃樣のうち三人が學習院へお供を連れて行かれます。旦那樣は七時に御起床、九時に御出勤あそばします。奧樣は女中に髪を結はせて、眞白にお化粧あそばし、旦那樣と一緒にお食事をあそばします。
この家は言葉づかひが大変やかましく、一一言葉尻を捕へて揚足をとつて得意になつていらつやいます。奧樣をはじめ十八のお孃様がさうなのです。そのくせ行儀などはお話になりません。十三のお孃樣が先日お客樣に差上げる紅茶を途中でお啜りになりました。それを上のお孃樣が見て、何もいはず笑つていらつしやいました。お心やすい御親戚の形の前では、十六になるお孃樣が大きな足を投げ出して平気でいらつしやいます。そして、女中は人間でないやうにお使ひなさるし、臺所へ來てはおつまみをなさいます。私ども女中の眼には、これが上流の家庭といふものかと疑はれるばかりでございます。
奧樣は琴生花茶の葉三味線、何でもよくおできになります。その中でも三味線は夢中であそばします。男の師匠を招いて大きな聲を張りあげて歌をおうたひになります。お稽古の時は用事があつても差控へることになってをります。それに忙しいお家で、八百屋肉屋酒屋と、何でも一一奧樣に伺ひに出るのでございますが、女中部屋から二回の奧樣のお部屋までは半町もありますので、忙しい時には足が棒のやうになります。
お花をお活けになる時も、わざわざ二階でなさいます。ソレ水、ソレ筵、ソレ道具と、一一階下から運ぶ手数などは少しも考へて下さいません。そのくせ階下にはチャンと生花のお部屋があつて何も揃つてゐますのに。
いやしいお話ですが、ご飯のお菜など、奧の下りものをポツチリ五人で分けます。一日忙しく働いてかうした榮養では、からだの續くわけがありません。それゆゑ出入の商人が「このお家はよく女中のかはる家です」と呆れてゐます。私も一日も早くかはりたいと思ひますが、かはりを入れてからと仰しやいますが、代りがないので、未だに心ならずも勤めてゐます。(『現代婦人の不平』より)
………………
女中さんも愚痴が言いたいでしょうに、大変ですねー。
尚、この他にもカフェーの女給さんとの対談や、『お目さん』という今で言うなら『マリ見て』な話など、面白い話が載っています。
藤田和美/編『アンソロジー 女と労働』ゆまに書房
明治・大正から昭和初期に掛けて女性によって書かれた評論・ルポルタージュ・エッセイ等の単行本の中から、時代の証言として価値の高いものを精選して本文を復刻したシリーズの中の、女性と労働に関するものを集めたアンソロジー集。
上記と同じシリーズのアンソロジー集。こちらは労働と仕事に関する記事を厳選して集めたものです。勿論女中さんに関する記事も沢山載っています。
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女中
普通の家庭に傭はれる者と、料理屋や旅館に傭はれて客の接待に當るものとある。
普通の家庭では十七、八才から二十二、三才位迄の未婚者が多く、朝五時か六時頃から夜十時頃迄が普通の勤務時間である。給金は月ぎめが大半で、十圓前後が一番多い。年ぎめの方は百圓前後が一番多く、給金の外に盆暮の手當が與へられてゐる。
料理屋の方は、十五六才位から三十才位迄が多く、収入は客の祝儀が主な所と、月給制度の所とがある。この方の勤務時間は朝はさう早くはないが夜は大抵十二時過ぎになる。(『全國婦人新職業案内』の『サーヴイス方面』より)
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この外にも、女中さんに付いて色々と紹介されています。
第八十三回(2005.12.10現在)
市瀬幸平/著『イギリス社会福祉運動史 ボランティア活動の源流』川島書店
イギリス近代社会の成立(18世紀初頭)から現代(20世紀末)までの三世紀の歴史の中で、それぞれの世紀のおよそ前期、中期、後期に典型的な福祉運動となって展開され、社会福祉の歴史に大きな足跡を残している個人や団体の福祉活動を取り上げ、民間福祉の継起や変遷の跡を辿る事により、その歴史的役割の検討を試みた書籍。
近代以降発達していった社会福祉の思想の原典である民間福祉活動を、個人や団体の活動の紹介を交えて論じた書籍。その中で『貧民』と呼ばれた最下層の階級に対する扱いがどの様に変化していったのかが伺えます。直接メイドさんと関わる情報はありませんが、関連情報を引用。
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また、慈善学校は中等学校への神学を前提とした初等教育機関として設けられたのではなく、教育はそれ自体で完結する仕組みになっており、慈善学校を終えた子どもたちは徒弟または家事使用人として職業に就くにが原則であった。慈善学校を卒業する子どもたちを徒弟または家事使用人として引き受ける善良な受託者を開拓し、卒業する子どもと受託者を引き合わせ、両者合意のもとで徒弟または家事使用人としての契約を結び、委託費用を定期的に支払い、しばしば委託先を訪問して卒業生を激励し、卒業生または受託者に苦情があれば両者から事情を聴いて、それを解決するこども、慈善学校の役員と教師の役割であった。卒業した子どもたちのアフター・ケアも、慈善学校の重要な教育の一環であったのである。慈善学校を卒業した子どもたちが、イングランド全体でどれほど徒弟または家事使用人として職業に就いたかは不明だが、ロンドンとウエストミンスターでは十八世紀のはじめから一七三三年までに、およそ二万人の子どもたちが慈善学校を卒業し、そのうち少年は七千百三十九人が徒弟、三千三百六十六人が家事使用人として職に就き、少女は一千三百八十三人が徒弟、三千八百七十三人が家事使用人として職に就いていることが明らかになっている。(『第一章 トマス・ブレイと慈善学校運動』の『三 慈善学校の教育』より)
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マグダリン更正院が開設されると、次つぎと街頭に立つ女性たちが入所し、入所者は一七六一年三月までの二年六ヶ月のあいだに二百九十一人に達している。更正院へ自発的に入所してきた女性は大半が二十歳以下で、彼女たちは十二歳から十五歳までの年少者と、それ以上の年長者とに分けられて、それぞれ別の階の部屋が割り当てられた。性病に罹っているものは、ロック病院の協力で治療がほどこされた。入所者の体力を回復するために、ミルク、チーズ、オートミール、肉類、パン、野菜などの食事が十分に提供された。職業訓練は、レースを編むこと、造花をつくること、子どものおもちゃをつくること、夫人帽をつくること、女性と子どもの服、コルセット、上着などをつくること、靴下や手袋を編むこと、カーペットを織ることがおもな内容であり、製品は低廉な価格で市販された。入所者は過去が問われることもなく、個人の意志が尊重されて社会復帰への援助がおこなわれた。一七六一年三月までに入所した二百九十一人の女性は、九十二人が家事使用人として職につき、二十七人が親元へ帰り、九人が裕福な家庭へひきとられ、十人が性病が原因で精神障害になり、四人が亡くなり、十人が構成員に留まることを拒否し、四十一人が再び売春婦となり、九十八人がいまだ更正院へ入所していたことが明らかになっている。(『第二章 ジョナス・ハンウェイと児童保護運動』の『五 女性保護運動の創始』より)
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メイドさんの学校の話は結構ありますね。
ジョルジュ・ヴィガレロ/著、藤田真利子/訳『強姦の歴史』作品社
十六世紀から二十世紀までの強姦に関わる文化の移り変わりを、裁判記録、法律の条文、医学書、新聞、国立古文書館蔵の手書き資料・県の所蔵資料、文学作品など、目も眩む程の広範な資料群から具体例を集めて提示した、強姦・性的暴力をテーマに取り組んだ書籍。
中世から現代に掛けての性的暴力の歴史を、様々な資料を元に論じています。特に子供の性的暴力に関するものが多く扱われています。メイドさんに関する情報も少しだけ載っています。
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攻撃が主人の側からくる場合には結果は反対で、罰が軽くなる。「召使いを犯した主人は、その娘の持参金にするために賠償金の支払いを命じられる」。主人の暴力はまったく、あるいはほとんど訴追されない。レティフ・ド・ラ・ブルトンヌの『ムッシュー・ニコラ』に出てくるトワネットの言葉は、召使いに対して振るわれたこのような暴力がどれほど軽視されていたかを明らかにしている。トワネットは簡単な数語と啜り泣きで、主人が彼女の弱さと炭酸ガスで起こった目眩に「つけこんで」、突然ベッドに押し倒されたことを語る。「娘に対してこれ以上ひどい仕打ちはない」。この無力な状況で裁判という考えはまったく出てこない。結局トワネットのとった「報復措置」は取るに足りないものだった。秩序の逆転も起こらない。召使いが主人を追いつめるのはこのうえなく難しい。「召使いの言葉は、身持ちのいい娘の言葉より信頼性が低い」と法解釈ではいい、一方、「召使いや妾がお腹の子の父親を主人だと主張するときには、それを信じるものとする」という文章がある。これによってトラブルが生じた。これは十八世紀末には珍しくないもめごとで、召使いが結婚によらない妊娠をすると、法の定めによって父親を指名するのだが、同時に主人を強姦で告発したのである。マチュリーヌ・マルカンの場合も同じだ。一七七四年、彼女は、長年にわたって仕えてきた裕福な商人、ド・ラ・シャリニエール氏の「耐えがたい」振るまいについて次のような申し立てをしている。「あるとき体の具合が悪いと寝室に呼ばれていくと、主人が暴力を用いて彼女をベッドに投げ飛ばし、その上から押さえつけてたので、その乱暴さへの恐怖と驚きで気分が悪くなった。すると、その弱ったところにつけこんで性の慎みを弄んだ」。法廷は罰する意欲がなく、この暴力を取り上げなかった。告発された人物の地位が高いため、とりあってもらえなかったのである。
近代ヨーロッパでは家族構成が変化して、十八世紀にはこのような暴力が広まった。カップルと子どもたちだけの核家族が大家族よりも優勢になったこと、家族の人数が減るのに反比例して使用人が増加したこと、この二つによって家族のシステムが変化した。アラン・ブーローが巧みに分析している「もっとも目覚ましい結果の一つ」は、「使用人を主人の意のままに利用することと売春の中間の形態」の八世である。リチャード・トレクスラーが研究したフィレンツェ文化はその特別な例で、そこでは、十五世紀の初めから若いブルジョワや若い貴族の性の手ほどきに変化が起きた。すなわち財産としての召使いを利用し、社会的に非難を受ける売春宿を訪ねなくなったのだ。フランスの司法官クリストフ・ド・ボルドーまでもが「何にでも応じる小間使い」と語るような召使いの利用は、十八世紀のヨーロッパにおいてより盛んになった。町の数が増え産業が発達したために、町住人である夫婦と召使いの間に上下関係を生じさせたということなのだろうか? ジャン−ルイ・フランドランあるいはピーター・ラスレットが書いたように、結婚年齢の緩やかな上昇と初産年齢の上昇が核家族化を強め、経済的安定も増大したので使用人を雇うことが一般してきたのだろうか? さまざまな原因によって家庭の空間は狭くなり、主人と使用人の上下関係が強まった。その結果、他人同士が狭い空間で暮らす機会が増え、暴力の可能性も増えた。フランスでは、十八世紀になると、結婚せずに出産をする召使いの数がそれまでになく増大した。十八世紀にはナントの召使いの三十六パーセント、クレルモン−フェランでは三十五パーセントが結婚外の出産をしたという記録がある。さらに驚くべきことに、マリ−クロード・ファンは十八世紀にラングドック地方で婚外妊娠を認めた召使いの九十四パーセントが主人の暴力によるものだと申し立てたことを示している。(『第T部 旧体制――暴力と涜神』の『1…強姦と他の暴力との比較』の中の『身分による免罪』より)
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メイドさんにご無体な事をする輩は昔から多かった様ですね。
相原恭子/文・写真『ヨーロッパお菓子紀行』NHK出版
著者がフラリと旅しながら、その場その場で感動と共に撮ったリアルな写真と文で、美味しいお菓子のヨーロッパの旅を紹介した書籍。
美味しそうなお菓子の写真がずらりと紹介されています。しかしこの本の最大のキモは22ページ目に紹介されているホテル・ザッハーの写真だったりします。ウェイトレスさんの写真が載っているのですが……メイドです。メイド風味です。
第八十二回(2005.11.27現在)
山之内克子『ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ』講談社現代新書
環状道路建設を機に急激に近代都市へと変貌したウィーン、そして十九世紀末へと至る転換期に経済・文化の中核を新たに担った市民達の『日常』を復元する。
十九世紀末のウィーンに於ける市民階層・ブルジョワの生活を紹介した書籍です。その誕生とその発展、日常生活を分かり易く紹介しています。メインが中流階級なのでメイドさん関係は少ないですが、僅かに触れている部分を引用します。
………………
五月の到来とともに、上流市民家族では大変な騒ぎが始まった。夏のあいだ、多くの家庭では、「家政をまるごと」避暑地へ移動させるのが習慣となっていたからである。家族だけが避暑地へ向かうのではなかった。コックや子守娘をはじめ、ほとんどの使用人も同伴し、さらに、衣類はもちろんのこと、食器や家具まで持参することになっていた。五月の終わりまでに首尾よく出発できるよう、婦人たちは、生活用品を籐の箱に詰めて送り出し、各部屋を掃除したり家具や調度品に覆いを掛けて留守の準備をしなくてはならなかった。出発直前には、通常の家事はほとんど停止してしまい、食事のたびに家族でレストランへ足を運ぶのがつねであった。(『第4章 ウィーン市民の日常生活』の『2――避暑旅行』の中の『上流市民の大移動』より)
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主人の豪遊の準備とは、メイドさんは大変である。で、その間メイドさん達の食事とかどうするんでしょうかねぇ?
坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康『昭和史の論点』文藝春秋(文春新書)
国を鎖していた小さな国が、急速な近代化を成し遂げ、しまいには世界の“一等国”を自任するまでになった。しかし東亜の風雲は収まらず、軍部は独走し、複雑な国際事情の中で、遂に未曾有の大戦争に突入していく――昭和日本は何処で誤ったのか? 戦争以外の進路は無かったのか? ワシントン体制から満州事変、二・二六事件、慮溝橋事件を経て、太平洋戦争、敗戦に至る過程を、昭和史研究の第一人者達が、偏った史観に囚われる事無く、徹底的に討論検証する。
あちこちの掲示板で紹介されていた書籍です。紹介文にある通り、昭和と戦争に付いて論じたものですが、実はメイドさんネタが隠されていました。
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保阪 ドイツでは、メイドの名目で若い女性を日本の武官と一緒に住まわせたといいます。これが実質的な現地妻だった。(『9 日独伊三国同盟(昭和十五年)――四国同盟への夢想』より)
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日本が急激にドイツに傾斜していった理由がコレだそうな(ネタだとの情報も)。何だかなー。
小池滋『世界の都市の物語 ロンドン』文春文庫
伝統と繁栄を誇る大英帝国の首都ロンドン。その歴史故に時と場所が交錯し、訪れる人々を混乱させる、このミステリアスな都市をディケンズ、亡命中のマルクス、フォールスタッフ、演奏旅行中のモーツァルト、切り裂き屋ジャックらこの街ゆかりの人物達が案内してくれる、歴史と観光スポットを織り交ぜたロンドン総合ガイド。
『エマ ヴィクトリアンガイド』の参考文献の一つの文庫版。ロンドンと言ったら小池滋氏と言う位、ロンドンに関する著書が多いですが、これもその一つ。様々な人物の歴史を通じてロンドンを紹介しています。直接メイドさんに関連するものではありませんが、脇役として様々なメイドさんが登場します。
………………
さて、一六六六年九月二日日曜日の午前三時頃、この日お客を招いて宴会を開く予定だったため、前日の晩から起きて仕度をしていた女中のジェインが、旦那さま火事ですと起しに来た。旦那さまがあわててナイトガウンをひっかけて女中部屋へ行き、窓から覗くと確かに西の方の遠くで燃えている。でも、大火事の体験を誰も全く持っていなかったので、大したことはあるまいとたかをくくり、また寝てしまった。
朝七時頃に起きて、また窓から眺めると、火事は下火になり、もっと遠くなったように見えたのでほっとしている(風が東から吹いていたので、ピープスの家の方には延焼して来なかったのである)と、女中がやって来て、何でも夜の内に三百軒も焼けて、ロンドン橋のそばのフィッシュ・ストリートがいま丸焼けだそうです、と告げに来た(『2 ピープスとイーヴリンの火事見物』の『旦那さま火事です』より)
………………
ついでながら、一家に献身的に仕えてくれた女中ヘレーネ・デルムート(レンヒェンの名で知られている)も、フランチェスカとほぼ同じ頃に男の子を生み、私生児として届出ているが、実の父親は彼女より二歳年上のカール・マルクスなのだ。よく家庭崩壊が起らなかったものだ。奥さまの忍耐と寛容には脱帽するばかりである。もっとも、女中に子を生ませるというのは、日本のお店の旦那だけではなく、ヴィクトリア朝の中産階級の家庭ではよくあることだったから、それほど大騒ぎすることではないかもしれない。
そして、この場合も典型的なヴィクトリア朝的もみ消し策が取られている。親友エンゲルスが父親だと名乗り出てくれて、レンヒェンもマルクスの死後エンゲルスの家に引き取られたので、残された子供たちはそう信じていた。一八九〇年レンヒェンが死ぬと、マルクス夫妻と同じ葬られた。ところが一八九五年エンゲルスが死ぬ時、マルクスの末娘エリナーに真相――マルクスが実の父であることを打ち明けたのであった。いささか新派悲劇的幕切れである。(『7 カール・マルクスの放浪』の『律義者の子沢山?』より)
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この他に教区で雇っている夜警がいたが、これとても薄給のため誰も志願者がおらず、他の仕事にありつけぬ老齢者が、おそるおそる夜回りをしているという有様である。だから、真夜中のラトクリフ・ハイウェイで、恐怖でふるえながら玄関口にたたずんでいる若い女中が、どこにも訴えるすべを知らなかったのも、無理からぬことだった。また、隣に住む人びとが、彼女を助けたり、あるいは代りに警官を呼びに行ったりしてくれなかったのを、特に不人情・臆病と非難するわけにはいかない。ともかく、めいめいが自分の身を守るだけで精いっぱいという時代であり、また場所柄だったのだ。(『9 イースト・エンドの恐怖(その一)』の『第一の殺人事件』より)
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たとえ歴史の中ではちょい役でも、充分に印象的なメイドさん達です。
第八十一回(2005.11.23現在)
バンクス夫妻/著、河村貞枝/訳『ヴィクトリア時代の女性たち ――フェミニズムと家族計画――』創文社(歴史学叢書)
ヴィクトリア社会に於いて避妊の実際的方法が、最初はアッパークラス及びアッパー=ミドルクラスの、そして後にはその他の社会階層の夫婦によって広範に採用され始めた事に関して、男性に対比させての女性の地位に付いてのフェミニストのイデオロギーが、その他の思想、特に経済的な生活水準と関連した思想と比べてどの程度重要であったか否かを論じた書籍。
ヴィクトリア時代に於ける女性の生活を、家族計画の観点から論じた書籍。主に上流〜上層中流階級の女性に付いて論じていますが、本来彼女達が実践していた『子供の数を意図的に制限する』事が、どの様にして他の階層に波及していったのかを、フェミニズムと絡めて論じています。
メイドさんに関する情報も、家族関係の部分で触れられています。長くなりますが、当時の女主人とメイドさんの生活が具体的に紹介されているので引用します。
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女性が彼女自らの手で実際に行うべきであると考えられた家事労働の量は、社会におけるその女性の地位およびその必然的結果として、彼女の雇っている使用人の数にかかっていた。妻たる者は、彼女の属する階級以上の生活を敢えてしてはならないが、また一方、エリス夫人の言葉を借りるなら、「自分の置かれた地位以下の生活をすることによってもたらされる人格と声望の喪失」ということも忘れてはならないのである。彼女は「非常の場合」には、常に自ら進んで援助の手を差しのべることができなくてはならないが、他方、「家事において多くやりすぎることと、あまりにも少ししかやらないこと」という両極端の間のしかるべき中庸を守ることが概して必要であった。「台所という環境は、洗練された知的な女性が生活すべき場所であるとは決して言えない。とはいえ、分別のある女性ならだれでも、その部署そのものに監視の目を光らせることで品格をおとすと考えることはないであろう。」要するに、彼女の真の立場は、「家庭の管理者、歯車の中心、導きの星」であった。
このような女性の立場が実際上何を意味したかを明らかにすることは、しかし幸いなことに、ビートン夫人が私たちに「家、使用人および子供を管理する方法」について詳細な説明を提供してくれている。主婦の一日についての彼女の説明の大かたは、他家を訪問したり、訪問者を迎えたりする方法、そしてもてなしの方法全般に関係している。しかしそれは、より純粋に家事的な性格の務めをも若干含んでいる。主婦は朝食前に子供たちが「きちんと洗い浄めてもらった」かどうかに注意しなければならない。朝食後の次の仕事は、「台所やその他の箇所を一巡」すること、そして「なにもかもが秩序正しく整然としているかどうか、種々の家僕が午前中の仕事を適切にやり終えたかどうかを確かめることである。その巡回の際に、その日一日の仕事に関するいろいろな命令を家僕に与えなければならない。また家僕がそのいくつかの担当部署に関して尋ねたがる質問には答えなければならないし、彼らが要求する特定の品物を倉庫から出して彼らに手渡してやらねばならない」。彼女自身の純粋に家事的な務めはこれで終わるけれども、より富裕な主婦はこれらの仕事ですら自らやる必要はなかった。というのは、ビートン夫人が「家政婦を雇っているような世帯では、女主人が自ら前述の務めを履行する必要はないであろう」と付言しているからである。
しかしながら、通常のミドルクラスの家庭には、家政婦は雇われていないものだった。だから、「このように使用人全体をあまねく監督したのちに、女主人、すなわち幼い子供たちをもつ母親は、彼らの教育や彼らの衣類の状態の点検に没頭するであろう。それから午前中の残った時間を読書かなにか娯楽に充てることになろう」。女主人の資産が「非常に限られたものである」場合にのみ、彼女は「自分の時間の多くを子供たちの衣服を拵えることに充てざるとえなくなる」であろう。昼食は通常、家族全員が同じ時間に、ひとつの大皿に盛られた料理から各自の分を取り分けることになっていたが、必ずしも一緒とは限らなかった。
通常のやり方は、一家の女主人がまず大皿の料理を彼女の食卓に持って来させ、その後でそれを子供部屋に運ばせるということである。しかし状況によっては、子供たちが女主人と一緒に正餐を取るということもありうる。子供が自分で食事をとれるようになるやいなや、母親およびその他の家族員と共に正餐をとるということは、子供たちの行儀のしつけに大いに資するものである。多くのちょっとした下品な癖とか話し方や作法の欠点は、こうした大人とのつきあいによって回避される……。また乳母も、こうすることによって、ほんのいっときでも彼女の小さな預かり物の世話から解放される。そして彼女が同僚の使用人同士で食事を楽しんでいる間に、今度は多くの女中たちが彼女らの大きな職務、すなわち「乳母に仕える」という仕事から解放されるのである。
これらの務めを果すのにかかる時間は、女主人の能率性や彼女の使用人の数によって明らかに変化があるけれども、ビートン夫人の表現を借りると、その資産が「それほど限られた」ものでない全ての女性にとっては、これらの勤めのためにまる一日つぶれるということはないし、午前中全部をふさがれるということさえほとんどないということは明らかである。実際、『パンチ』誌の所謂「母親の土曜日の査閲」についての以下に挙げる半ばユーモラスな説明が物語っているのは、その著者の意図にもかかわらず、逆に女主人の仕事がそんなに骨の折れるものとはほとんど思えないということであった。
リンネル類が洗濯屋から戻ってきたらそれを点検し、それぞれの持ち主に配る前にそれが適度に乾かされて、繕いがほどこされているかどうかに注意すること、巡回して来る商人と応待し、一週間分の勘定を全部支払うこと、食糧貯蔵庫のストックを調べて、次の週に必要なものは何々かを調べること、厳しい監視の目を光らせて台所のまわりを一巡し、料理人がポットや鍋をきちんと清潔な状態に置いているかどうか、また銅製のやかんが可能な限りぴかぴかに磨かれているかどうかを調べること、洗い場を覗いて、過度な量の塵芥が流しやその他の場所に溜ったままになっていないよう確認すること、女中とその他の使用人に清潔なタオル、シーツ、テーブル掛けそれに埃払いの布を手渡ししてやること、給仕と一緒に皿を数え直すこと……、翌日の日曜の正餐を念頭に置いて食堂を完璧に掃除させ、マホガニーの食卓にほどよく油を塗って磨かせること、またその正餐のために物を惜しまず準備をすること……、翌日境界に被っていくための最上のボンネットを取り出しておくこと、全ての勘定書を集めて、家計簿を作成し、それからそれを間違いがないか十分に確かめ帳尻の合った状態にして主人たる夫に差し出すこと、夕食の後で子供部屋に足を運んで、七日に一度の習慣としてオリブの若木たち〔子供たちのこと。〕が浴槽のなかで擦り洗いをしてもらい、目の細かい櫛で髪を洗ってもらっているかを、自ら母親としての眼で確認すること、幼い子供たちに教理問答を復唱させた後で彼らにおやすみのキスをしてベッドに入れてやること、一二時前に家の戸締りがすんでいるか、全ての者が寝床についたかどうかを確かめること、しかもこういったこと全てをこの上なく優しく、親切に、秩序整然と、さらに全ての者から服従を要求しかつ尊敬を得るような、威厳のある女主人らしい品位のある態度で行うこと。
実際、現代の主婦が自らの日常の仕事を考えてみると、次のように論じたフェミニストおよびその同調者の意見に同意するのももっともだろう。
イギリスの家庭の管理ほど単純なものはほとんどない。……使用人に命令を与えたり指揮したりというような、日々必要とされる管理・監督といった仕事は、せいぜい午前中の一、二時間も費やせば、おそらくだれにでもできることである。
しかしながら、イギリスのミドルおよびアッパークラスの主婦が実際の家事労働から解放されるのは、ただ廉くて数多くの使用人の供給があったがゆえに可能であったのである。つまり、一家の女主人が「家事の些細な事柄」に口出しすることを御法度とするこのような生活様式は、使用人が数的に急速に増加しつつあった時期に発展し広まったということは、単なる偶然の時間的一致ではないのである。
基本的には最小限三人の使用人、すなわちコックとパーラーメイド〔食卓に侍する女中。〕とハウスメイド〔主として部屋の掃除を受け持つ女中。〕の三人か、あるいはコックとパーラーメイドとナースメイド〔子守り女中。〕の三人を雇わない限り、この時期のミドルクラスの家庭にふさわしいように全てが完全に機能しているとはいえなかった。もちろん、ミドルクラスの下層に属する者は、普通はそれだけを雇う余裕もなかったので、必要に応じて臨時に若い少女を一人手伝いに雇いながら、一人でなにもかも受け持つ雑働きの女中で間に合わせざるをえないのが往々の姿であった。しかし、彼らの所得水準が上がってくると、彼らはまず最初にハウスメイドを、あるいは子供がいる場合にはまずナースメイドを追加し、その次にコックを増やした。これ以上の膨張は、この基本線に若干の変化が加わっていくだけのことである。つまり、コックには台所女中、そしてのちには洗い場女中があてがわれた。ハウスメイドの数は増えていき、やがて使用人全体が家政婦の監督の下に置かれた。したがって、このミドルクラスの膨張期に、世帯数の増加率と雑役女中の増加率とがほぼ同じ程度のものであったのに対して、コックやハウスメイドやナースメイドの増加率は三倍以上、また家政婦のそれはほぼ六倍にもなったということはなんら驚くにあたらない。すなわち最大の数的成長は、家事労働のより専門家された分野の間で起こったということである。そして「お上品ぶり(ジェンティリテ)」を具備した家庭にあこがれたミドルクラスの主婦は、家事使用人の造花に応じて自らは日常的な仕事から解放された。その結果、彼女は「自分自身の身じまいや食卓のレイ・アウトに必要な気配り」をすることができたのである。独身女性や未亡人にとって職を見つけることがどんなに必要であったにもかかわらず、その一方において、ミドルクラスの既婚女性は急速に有閑女性となりつつあったのである。(『第五章 完全なる妻』より)
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雇う側の必要性とその生活がよく分かります。
アリス・レントン、河村貞枝/訳『歴史のなかのガヴァネス 女性家庭教師とイギリスの個人教育』高科書店
ガヴァネスの歴史を語る事で、イギリスの女性教育の歴史を、又、上・中流階級に於ける伝統的な親子関係、子育てのあり方の変化、そして女性は男性に経済的に扶養されるべき存在という社会的規範に反して、独立独歩を目指した、或いはむしろ目指さざるを得なかったジェントルウーマン達を論じた書籍。
女性家庭教師であるガヴァネスに付いてかなり詳しく紹介した書籍。ガヴァネスになる以前の歴史に始まり、十八世紀から現在に至るまでの歴程、ガヴァネスを取り巻く社会の変遷など、全編に渡ってガヴァネスに付いて論じています。
メイドさんに関する情報も、ガヴァネス絡みで載っています。殆どがガヴァネスと敵対していた事ばかりですが、一部引用します。
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同じころ、若きパットナム姉妹は、オックスフォードシアで一連のガヴァネスのもとで育てられた。その経験はおおむねカントリー・ハウス生まれの多くの子供たちと似たようなものであったが、メアリ・パットナムは、彼女の回想記の中で、つぎのように記録している。
……パンジーと私が知っている人といえば、ガヴァネスだけであった。だからいやでもおうでも彼女達のことを実際熟知することになった。
彼女らのほとんどは子供が好きではない不幸な女性であった。ともかく彼女らは私たちを好いてはいなかった。しかしながら、私たちは、彼女たちに託されて味わった苦痛にたいして、つぎのようなことでもって彼女らに十二分に復讐したと言えよう。彼女らが私たちの家で過ごした単調で恥辱に満ちた生活、彼女らは北に面したおそろしく小さな寝室をあてがわれていたという事実などだ。その一角はガヴァネスがいなければ、浴室や流しや女中の戸棚にもっぱら当てられていたような場所である。廊下にはリノリウムが貼られていて、早朝女中が階段を一段とばしにどしんどしんと降りて行き、箒や桶を取りに来る騒音は、その日一日中ガヴァネスの気分を気むずかしくした。
読者の同情はもっぱらガヴァネスに寄せられるであろう。通常家内使用人がガヴァネスに示した嫌悪感は、彼女の寝室の外で早朝に面白がってがちゃがちゃといわせる騒音となって表れる。ベッドで横になったガヴァネスが眠るに眠れず、目に怒りと不満の涙をためて、粗末な天井を凝視している姿がありありと目に浮かぶ。(『第十三章 勉強部屋の戦争と平和』より)
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ガヴァネスと乳母の処遇にはいくつかの細かい相違点があり、それがそれぞれの立場をよく表していた。たとえば、ガヴァネスは学期単位に支払いを受け、それはサラリー(給与)と呼ばれたのにたいして、乳母は月ごとに支払われ、それはウェイジ(賃金)と呼ばれた。ガヴァネスの稼ぎは通常乳母の倍であった。前世紀にはしばしば年四回支払われたコック、執事、家政婦もまた、いまでは月極めで支払いを受けるようになった。他の使用人は週給であった。それぞれの場合の支払いの期間は、各々が奉公に終止符を打つときに出す、あるいは(逆に雇い主側から)出されるべきとされている予告の期間の長さに相当するのである。
さらにガヴァネスと乳母は服装が異なっていた。そしてその違いは、乳母の育児室用のエプロンと、白い糊の利いたオーバーオールにとどまるものではなく、ロンドンのリージェント・パークの王立植物園の中であきらかに見て取れた。そこはガヴァネスと乳母が午後よく訪れる場所で、私立の植物園ながら、王立植物協会の会員の家族には開放されていた。そして乳母とガヴァネスとは門の鍵をもっていた。そこで彼女らは、子供たちが輪投げをしたり、砂利道でスキップをしたりする間、散歩をしたり、座って友人たちとおしゃべりをしたりした。ハーリー街の専門医の娘、イヴリン・ノースクロフトは、一九二〇年代初期に乳母に毎日公園に連れて行ってもらった。そしてベンチに座っているガヴァネスと乳母を容易に識別することができたと、回想している。乳母はみな、夏は青みがかった灰色の服を着ており、十月以降は濃紺色の服とそれにマッチするフェルトの帽子を被っていた。ガヴァネスは一年中、ツイードのツーピースとメリヤスのセーター[薄手や厚手や季節により変化はあるが]を着ていた。要するに、乳母は制服を着用しており、ガヴァネスは雇い主の服装をまねていたのである。
ガヴァネスを乳母の上に置くもう一つの相違点は、名前の呼び方であった。乳母は、家族の者から苗字だけで、たとえうば「ジョーンズ」と呼びすてにされた。そして子供たちや使用人は、「ナニー」とか「ナニー・ジョーンズ」と呼んだ。ガヴァネスはだれからも、ミスという敬称を付けて、ミス・スミスとかミス・ブラウンなどと呼ばれた。しかし子供たちや、若干の家族では両親すら、省略形の愛称を用いることもあった。習慣とはいえ、これだけで乳母に苛立ちを与えることもあった。その苛立ちは、ガヴァネスが普通は主家の夫人をミセス・パーキンとかレイディ・パーキンと呼ぶのにたいして、乳母は他の使用人たちと同様、女主人を「マダム」とか「マイ・レイディ」と呼ばなければならないという受け入れがたい事実によって増幅された。乳母や召使いのだれかに話をするときに自分の優越性を強調したいガヴァネスは、肩書きのある、彼女らの共通の雇い主のことを「令夫人」と表現して、巧みに自らを家族の側に置いた。この表現は通常、家族の者が、目下の者と話すときに用いたのである。(『第十四章 乳母との対立』より)
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メイドさんとガヴァネスとの対立の様子がありありと分かります。
ジェーン・ランザー・ギフォード『ミセス・ギフォードのイギリスパイとプディング』文化出版局
イギリスの伝統的なパイとプディングを、本場イギリス人女性が紹介した料理本。
著者はスコットランド人で銀行家の夫の赴任に伴って来日し、それを機に、中日英国大使館付きのフード&ドリンクアドバイザーを務めながら、時々料理のデモンストレーションを行っている人。スコットランドの自宅も紹介していますが、これが結構なお屋敷だったりします。紹介されている料理は甘くないパイと、甘いパイやプディングの二種類で、とっても美味しそうです。
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