戻る

能登畠山家

飯川光誠 いがわみつのぶ ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は大炊助・主計助・若狭守。遊佐失脚後には能登七人衆の一人となる。主君畠山義綱によく仕え、その追放後も行動を共にし、能登奪還戦にも協力した。

井上英教 いのうえひでのり ?〜?
能登畠山氏家臣。通称弥九郎・次郎右衛門。官途は下野守。1558年〜1562年まで畠山義綱のもとで奉行人を務めた。

井上英安 いのうえひでやす ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は美濃守。1566年、畠山義続・義綱父子が能登を追放されて近江坂本へ逃れた際、これに同道した。

井上総英 いのうえふさひで ?〜?
能登畠山氏家臣。通称蔵人。別に紹英(「総」との誤字か)。梅龍斎と号す。畠山義総に仕え、書に優れていた。また和歌にも長じ、家中随一の文人と称された1534年三條西実隆に和歌の教えを請うた。。

今井綱秀 いまいつなひで ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は出羽守。畠山義綱に仕え、奉行人を務めた。1562年の気多神社造営の際は社務奉行を務めている。

隠岐統朝 おきむねとも ?〜?
能登畠山氏家臣。通称藤四郎・藤兵衛・新左衛門。官途は豊前守。畠山義統に仕え、1497年に義統の息子畠山義元が家督を継ぐと、引き続き信任を受けた。1500年義元が弟慶致に追われると失脚したが、1508年に義元が復帰すると統朝も再び重臣として仕えた。

笠松但馬守 かさまつたじまのかみ ?〜?
能登畠山氏家臣。通称平四郎・新介。1555年、主君義綱による温井総貞弑虐事件に端を発した温井党の叛乱では鎮定軍として活躍。1566年に義綱追放を受けるとこれに同道した。1568年頃まで史料に名を遺す。

河野続秀 かわのつぐひで ?〜1554
能登畠山氏家臣。能登羽羽咋郡堀松郷末吉城主。1554年遊佐続光と温井総貞が争うと温井党に味方し、羽咋郡一宮で戦って戦死した。

河野肥前 かわのひぜん ?〜1577
能登畠山氏家臣。河野続秀の男か。能登羽咋郡末吉城を守備したが、1577年上杉謙信に攻められて落城、戦死した。

熊木続兼 くまきつぐかね ?〜?
能登畠山氏家臣。通称金右衛門。畠山義続・義綱に仕え、1566年に義続父子が追放され近江に逃れた際もこれに同道した。のち義綱の能登奪還に協力したが果たせずに終わる。

熊木兵部 くまきひょうぶ ?〜1577
松波義親家臣。熊木続兼の男あるいは一族。1577年上杉方の攻撃を受け、これに抵抗して戦死した。

神保氏重 じんぼううじしげ ?〜1585
官途は豊前守。一道と号す。山内上杉顕定に味方して長尾為景と敵対、越前朝倉氏に通ず。越中にあったため越中神保氏との結びつきも強く、恐らくは両家にとっても家臣とゆうよりは同盟者とゆう立場であったか。越中神保氏とは同姓だが血縁関係は不明である。畠山・神保の両氏が没落すると越中に入部した佐々成政に息子氏張とともに従い、1585年に氏張が成政と敵対する前田方の阿尾城主菊地武勝攻めに出陣した際に守山城の留守居を務めたが、城内に謀叛が起きて戦死した。

神保氏則 じんぼううじのり ?〜1584
佐々成政家臣。神保氏張の男。通称清十郎。官途は主計頭。妻は成政の四女(松寿院)。1584年の末森合戦に参加したが前田方の後詰を阻止できずに退却し、合戦後に荒山砦・勝山城に進撃してきた前田軍と戦って戦死したといわれる。『寛政重修諸家譜』では「天正2年12月能登で戦死」とあるが、「天正12年」の誤りであろう。

神保氏張 じんぼううじはる 1527〜1592
神保氏重の男。通称宗五郎。氏晴とも表記。官途は安芸守。妻は織田信長の妹とゆう。越中守山城主。能登畠山氏の家臣とも神保長職の家臣ともゆうが、実際は越中に蟠居した国人の一人であろう。越中神保氏が没落し長尾上杉氏の勢力が増すとこれに従ったが、1576年には信長に通じて謙信と争って敗れ再び謙信に属す。しかし反上杉氏の立場であり、謙信死後には上杉方となった能登七尾城の畠山旧臣に対する長連龍の攻勢を援助し、また神保長住と行動を共にしたか。御館の乱によって越中が長尾上杉氏から解放されると信長から派遣された佐々成政の与力としてこれに属し、1583年の魚津城攻めなど対上杉戦に活躍した。成政と前田利家の争いが始まっても成政の部将として一軍を率いるが、1583年の末森合戦では前田軍の来襲時成政と軍議中であったため攻略に失敗、翌年の阿尾城主菊地武勝を攻めたが撃退されるなど、前田軍には苦戦を強いられた。成政の肥後転封にも従い、肥後天草一揆では隈本城を死守し、後詰にきた成政に呼応して一揆軍を挟撃して撃破した。成政改易後は浪人となったが家康に召抱えられ、下総伊能村二千石を与えられた。子孫は旗本として存続。

神保長頼 じんぼうながより ?〜?
能登畠山氏家臣。神保総誠の男。通称宗左衛門・孫四郎。官途は周防守。1551年〜1554年まで石山本願寺との折衝役を務めた。1566年に主君畠山義綱が七尾城を追放されるとこれに従い、1568年の義綱による能登奪回戦にも馬廻として従軍。その後上杉謙信により七尾城が落とされると松波義親とともに松波城に籠るが長沢光国の攻撃を受けて落城、戦死した。

神保総誠 じんぼうふさのぶ ?〜?
能登畠山氏家臣。通称宗左衛門、また綱誠とも。大永から天文にかけての頃京都三条西実隆と接触し、1540年〜1548年まで石山本願寺との折衝を担当、また越中神保氏の内乱の際も和議の使者を務めるなど、外交面に活躍した。

鈴木因幡 すずきいなば ?〜?
長連龍家臣。上杉謙信没後、空白地となった能登の覇権をめぐり、信長の支援を受けた連龍に従い、温井景隆・三宅長盛らと戦いこれを撃破した。1580年八伏山の堡塁を焼き払う。信長横死後は前田利家に属し、1584年佐々成政及びその臣神保氏張の来襲に備え、窪田館を防備した。

長景連 ちょうかげつら ?〜1582
能登畠山氏家臣。通称与一・与七。黒滝長氏。主家没落後は上杉氏に通じて能登珠洲郡正院川尻城主となるが、1579年に信長方温井景隆らに攻められて越後へ敗走。織田勢の魚津城攻略中に能登鳳至郡棚木城に拠って信長に抗したが、長連龍に攻めこまれて奮戦空しく落城、戦死した。

長続連 ちょうつぐつら 1515〜1577
能登畠山氏家臣。通称新九郎・九郎左衛門。初め勝連。官途は対馬守。平加賀守(盛信・秀続・秀連)の男で、次男であったため長英連(叔父とゆう。母の兄弟か)の女婿に迎えられ、能登鳳至郡穴水城主となる。続は畠山義続の偏諱であろう。義続・義綱・義慶・義隆の四代に仕えた重臣だが、義慶毒殺の首謀者とする説もある。1543年遊佐続光らと石塚で戦い、1550年には遊佐続光・州崎兵庫(加賀一向一揆衆徒)らと大槻で戦う。1565年家督を息子綱連に譲る。1576年頃より能登畠山氏領国は上杉・織田の両氏から圧迫を受け、続連は信長方として上杉氏勢力に抵抗したが、1577年遊佐続光が上杉氏に寝返って降伏を勧めるもこれを拒否、その後遊佐邸にて誘殺された。このとき長氏の一族ほとんどが死滅したとゆう。通称の九郎左衛門は長氏累代の名。

長綱連 ちょうつなつら 1539〜1577
能登畠山氏家臣。長続連の男。連龍の兄。通称大九郎・九郎左衛門、左兵衛。初め重連。綱は畠山義綱の偏諱だろう。1565年に家督を継ぐ。義慶横死後は義隆の補佐を務めたが、上杉謙信の攻略を受け、綱連らは40余日七尾城に籠って抵抗する。しかし遊佐続光によって父続連ともども誘殺された。

長連龍 ちょうつらたつ 1546〜1619
能登畠山氏家臣。長続連の男。綱連の弟。通称九郎左衛門。初め好連。臨済宗池崎孝恩寺や定蓮寺に入って宗顕と号し、1577年の長氏族滅のときは信長のもとに救援を求める使者として赴いていたので助かった。復仇に燃える宗顕は同年還俗し、1578年には早くも能登に入って穴水城を奪還したが、温井景隆らに敗れて神保氏張を頼る。1579年温井氏らは上杉氏臣鯵坂長実を追放して七尾城を占拠したが、連龍も能登に上陸し、ここに能登をめぐる内争が始まったが、連龍は温井党を撃破し、窮地に追い込まれた温井・遊佐らは信長に降った。しかし菅屋長頼の能登入部に際して遊佐続光・盛光父子は逐電、のちに捕らえられて処刑された。温井景隆・三宅長盛兄弟は越後へと逃亡する。北陸平定後、1580年能登鹿島郡福水城主となり、1581年に前田利家の与力となり、のち三万一千石を領有。本能寺の変後は前田氏臣となり、温井景隆らが石動山衆徒と結んで反抗に及ぶと、前田勢の先鋒としてこれと戦った。賤ヶ岳の戦いにも出動。1584年の末森合戦では佐々勢を撃退し、翌年の佐々攻めにも従軍した。九州征伐では利家に従い京都に在陣。1588年に隠居した。関ヶ原でも大聖寺城攻めに加わっている。戦後三万三千石を領した。生涯40度に及ぶ合戦を生きぬいた豪傑。兄綱連とは相当年齢が離れていたのか(7歳よりも上か)、妻は綱連の女とされる。あるいは養女だろうか。
死後次男連頼が跡を継いだが、1665年浦野事件を引き起こして鹿島郡の領地を失っている。

長連理 ちょうつらまさ ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は三河守。井上英教とともに畠山義綱に奉行人として仕えた。1566年の義綱追放後は義慶に仕えた。

長英連 ちょうひでつら ?〜?
能登畠山氏家臣。長教連の男。1488年加賀一向一揆の攻撃を受け、穴水城で戦うが父教連は敗死し、英連は逃れた。のち穴水城を奪還し、1531年朝倉氏と結んで一向一揆と戦う。

寺岡紹経 てらおかしょうけい ?〜?
能登畠山氏家臣。通称四郎左衛門。紹経を名乗りとして「つぐつね」とも。1563年畠山義綱による気多社造営の際に社務奉行を務めた。1573年の気多社奉加交名にも名が載る。

土肥但馬守 どいたじまのかみ ?〜?
能登畠山氏家臣。能登羽咋郡末森城主。1550年遊佐光統が主君義続に背いて敗れると、末森城に匿う。その後能登は上杉氏・織田氏の争奪の場となり去就に苦慮したが、結局前田利家に属した。1584年の末森合戦では甥土肥伊予守が佐々成政に敗れて戦死し、末森城は一時成政の手に落ちた。

富木綱盛 とみきつなもり ?〜?
能登畠山氏家臣。通称小次郎。別に胤盛。1566年に主君義綱が追放されたとき、これに同道した。1568年に義綱を奉じて能登奪還を企図したが、失敗に終わった。

奈志見光連 なじみみつつら ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は中務大輔。能登鳳至郡の国人。1570年畠山義慶の奉行人を務めた。

温井景隆 ぬくいかげたか 1532〜1582
能登畠山氏家臣。温井続宗の男。但し温井景利の男とも。官途は兵庫助・備中守。権勢を誇った祖父総貞が、当主の権限強化を図る畠山義綱によって1555年に殺害されると加賀に出奔した。しかし1566年に義綱が重臣たちに追放されると復帰し、義慶の下年寄衆として仕えた。1577年に上杉謙信が能登七尾に進出すると降伏したが、翌年謙信が死去すると七尾城代鰺坂長実から同城を奪って信長に属した。ところが長連龍と対立したため越後上杉氏を頼って出奔する。本能寺の変が起こると石動山に蠢動して前田利家と対峙、しかし利家の救援に派遣された佐久間盛政の猛攻を受けて戦死した。

温井孝宗 ぬくいたかむね ?〜1531
能登畠山氏家臣。温井俊宗の男。通称藤五郎。官途は兵庫助。畠山義統・義元・慶致・義総の四代に仕えた老臣。加賀大小一揆の際、加賀河北郡太田において戦死した。三条西実隆と親交があり、和歌に巧みであった。

温井続宗 ぬくいつぐむね 1513〜?
能登畠山氏家臣。温井総貞の男。官途は兵庫助。1551年に家督を継ぐ。続は畠山義続の偏諱であろう。1553年に政敵遊佐続光を追う。1555年に当主の権力回復を目指す義綱により父総貞が討たれると続宗の力は没落した。息子景隆とともに加賀に出奔したか。

温井続基 ぬくいつぐもと ?〜?
能登畠山氏家臣。別に景員。官途は山城守。続は畠山義続の偏諱か。1555年に温井氏惣領総貞が主君義綱によって討たれると阿岸本誓寺ら一向一揆と結んでこれに対抗したが同年に敗北。加賀に逃れたか。

温井総貞 ぬくいふささだ 1494〜1555
能登畠山氏家臣。温井孝宗の男。官途は兵庫助・備中守。紹春と号す。畠山義続の家督相続に尽力。1553年に遊佐氏と争ってこれを制し、能登七尾七人衆筆頭となる。しかし1555年、当主の権力回復を目指す畠山義綱によって討たれた。

畠山家俊 はたけやまいえとし ?〜1531
能登畠山氏家臣。畠山政栄の男とゆう。官途は大隅守。1531年の加賀大小一揆の際、若松本泉寺などを支援する畠山義総軍の大将として加賀に出陣したが、加賀河北郡太田において戦死した。姉は蓮如の後妻。

畠山晴俊 はたけやまはるとし ?〜1558?
能登畠山氏家臣。通称四郎。1555年に当主義綱と争い内乱を引き起こした。能登鹿島郡勝山城に拠り、甲斐の武田晴信・加賀一向一揆・能登阿岸本願寺らと結んで義綱を七尾城に追い詰めるなど初め優勢であったが、越後の長尾景虎・越中の椎名氏らが義綱に味方すると劣勢となり、1558年に勝山城も落城。これと前後して戦死したものと思われる。

畠山駿河守 はたけやまするがのかみ ?〜?
能登畠山氏家臣。畠山義総の弟。一向一揆と結んで長氏・温井氏・遊佐氏らと抗争した。

畠山義隆 はたけやまよしたか ?〜1576
畠山義綱の男。義慶の弟。通称二本松伊賀守。1566年に父義綱が重臣らによって追放され、兄義慶が擁立されるとこれを補佐した。1574年に義慶が死去すると後継したが、その2年後に急死し、実質上能登畠山氏は滅亡する(義隆死後は弟の春王丸が僅か2歳で継いだが、1577年の七尾城落城の際に死去)。但し能登畠山氏の最末年は不詳のことが多く、義慶・義隆同一説など、その死・系図などには謎がある。

畠山義続 はたけやまよしつぐ ?〜1590
畠山義総の男。官途は左衛門佐。兄義繁が早世したため1542年に家督を継ぐ。1545年に畠山氏宗家の稙長が死去したときその後継者にも目されたが、父義総が同年死去して成らずとゆう。重臣の権勢強く、義続は象徴の地位しか保てずに、実質上領国は畠山七人衆(能登七人衆・七尾七人衆とも)による合議制のもとに統治された。1551年には早くも息子義綱に家督を譲り、出家して徳祐と号した。その後義綱は復権を図って家中の粛清を行い、重臣らの反感を買って1566年に能登を追放されるが、このとき義続も運命を共にし、近江坂本に隠棲したとゆう。

畠山義綱 はたけやまよしつな ?〜1593
畠山義続の男。通称次郎。別に義則・義胤。官途は修理大夫。1551年に父より家督を譲られる。義綱は重臣の権勢溢れる実情に憤って家中統制・主君復権を賭けて1555年に七人衆筆頭の温井総貞を誅殺、1558年には謀叛人畠山晴俊を討ち上杉氏との連携を深めるなどしたが、逆に七人衆は謙信に内通、義綱追放を策謀して、1566年ついに義続・義綱父子を能登七尾城より追い出して再び合議制による統治を行った。義綱は妻が六角義賢の女であったため近江に潜み、以後能登奪回を試みて一時は半国まで手中に収めたが撃退され、最後は近江海津で没したとゆう。ただし没年は異説もある。ちなみに二本松畠山氏も、1580年頃の当主は義継(義続)・義綱父子である。時代が下るとはいえ、珍しい事例であろう。

畠山義慶 はたけやまよしのり ?〜1574
畠山義綱の男。通称次郎。官途は修理大夫。1566年に父義綱が能登を追放されると家督を継いだ。しかし実権は七人衆ら重臣にあった。1574年に死去。毒殺といわれる。義隆と同一人物とも。

畠山義総 はたけやまよしふさ 1491〜1545
畠山慶致の男。通称次郎。官途は左衛門佐・修理大夫、従四位下。叔父畠山義元の継嗣となり、1515年に義元が死去すると家督を継ぐ。七尾城を築いて領国支配を進め、また文人・公卿らを招いて城下町の形成・文化移入に多大な功績を残す。古典・和歌・文学に造詣深く、大いにこれを保護して30年に亙る安定期を築いた英主。

畠山義統 はたけやまよしむね ?〜1497
畠山義有の男。官途は左衛門佐。父義有が1437年頃に戦死したため、祖父義忠の後見を受けて養育された。応仁の乱では畠山義就を支持し、畠山政長・細川勝元ら東軍に対抗して西軍山名方に属した。初め京都にあったが1477年に能登に下向し、以後勢力の扶植に努めた。公家らとの親交厚く、このため戦乱を避けて能登に下向する公卿も少なくなかった。

畠山慶致 はたけやまよしむね ?〜1525
畠山義統の男。義元の弟。通称弥次郎。官途は左衛門佐。父義統の死後家臣は兄義元派・慶致派に分かれて抗争し、遊佐統秀らは1500年義元越後へ逐い、慶致を擁立した。1506年に各地で一向一揆が蠢動すると義元派・慶致派の和睦が図られ、慶致は隠退して義元に家督を譲る代わり、慶致の息子義総が義元の継嗣に決められた。1515年に義元が死去すると義総が新たに家督を継いで能登守護となり、慶致はこれを後見した。

畠山義元 はたけやまよしもと ?〜1515
畠山義統の男。慶致の兄。官途は左馬介(助)・修理大夫。1497年に父が死去すると家督を継ぐが、1500年慶致を推す遊佐統秀らにより追われ、越後へ逃れた。1506年の一向一揆蠢動により慶致・義元は和し、能登守護に返り咲いた。1508年前将軍義材を擁して大内義興が上洛すると、これに応じて義元も上洛して義材に近侍した。1513年能登で反乱が起きたため帰国し、継嗣義総とともにこれを鎮圧した。

平堯知 ひらたかとも ?〜?
能登畠山氏家臣。平総知の男。通称新左衛門。別に喬知。官途は加賀守。畠山義綱のもとで七人衆の一人として年寄衆をを務めた。1577年上杉謙信の七尾城攻めに降伏した。1579年温井景隆らとともに七尾城を占拠したが、1581年織田軍の能登侵攻を受けて七尾城から退去、逃亡した。

平総知 ひらふさとも ?〜?
能登畠山氏家臣。平光知の男。官途は加賀守。畠山義続に仕えて年寄衆を務めた。七人衆の一人。

平光知 ひらみつとも ?〜?
能登畠山氏家臣。通称新左衛門。文明期には近江余呉荘に邸宅を持ち、能登と京都の連絡役を務めた。北野社領能登羽咋郡菅原荘・上賀茂社領土田賀茂荘の代官職を務めている。

松波義親 まつなみよしちか ?〜1577
能登畠山氏家臣。畠山義綱の男。官途は常陸介。松波氏の名跡を継ぎ、松波城主となる。1577年に上杉謙信が能登七尾城攻略に向かうと救援に赴いたが落城し、義親は松波城に籠った。その後上杉方長沢光国の攻撃を受けて落城、自刃した。文武に優れていたとゆう。

三宅綱久 みやけつなひさ ?〜?
能登畠山氏家臣。通称次郎右衛門。1555年畠山義綱が温井紹春(総貞)が討つと、これに抵抗して謀反。その後一向一揆と結んで義綱に対抗したが、鎮圧された。

三宅俊長 みやけとしなが ?〜1531
能登畠山氏家臣。三宅忠俊の男。官途は伊賀守。1513〜15にかけての騒乱の間、年寄衆として政務を沙汰。1531年加賀大小一揆の際、太田の戦いで戦死した。

三宅長盛 みやけながもり ?〜1582
能登畠山氏家臣。温井続宗の男。温井景隆の弟。官途は備後守。七人衆の一人三宅総広の養子となる。1555年に温井総貞が畠山義綱によって弑されると兄景隆とともに加賀へ出奔。1566年の義綱追放劇により能登へ復帰して長氏抹殺に加担し、畠山義慶のもとで年寄衆。1577年上杉謙信の侵攻を受けてこれに降伏したが、謙信死後、1579年には七尾城を占拠して信長に従う。しかし1581年信長に逐われたため、本能寺の変後は兄景隆とともに石動山衆徒と結んで能登侵入を図り、佐久間盛政の攻撃を受けて敗死した。

三宅総賢 みやけふさかた ?〜?
能登畠山氏家臣。通称彦次郎。1554年の温井・遊佐の抗争では温井氏を支援。1561年温井氏の乱では義綱に味方。1566年、長続連ら七人衆らに義綱が逐われると、これに同道して近江へ赴く。1568年能登奪還戦にも参加したが、成功しなかった。

三宅総広 みやけふさひろ ?〜?
能登畠山氏家臣。三宅俊長の男。官途は筑前守。七人衆の一人。温井総貞と結んで権勢を振るい、1553年に温井氏・遊佐氏が争うと温井氏に与同してこれを破る。

三宅宗隆 みやけむねたか ?〜1582
能登畠山氏家臣。通称小三郎。能登鳳至郡崎山城主。1577年上杉謙信の侵攻に降伏したが、1579年の七尾城占拠に加わる。しかし信長に逐われて越後へ逃れ、本能寺の変後は石動山衆徒と結んで能登に侵攻したが佐久間盛政に敗れて捕らえられ、自刃。

三善一守 みよしかずもり 1547〜1615
能登畠山氏家臣。三善光康の男。官途は石見守。越中池田城主。1567年父の死を受けて家督を継ぐ。1576年上杉氏の侵攻を受けるとこれに通じたが、その後佐々成政が越中に入部するとこれに仕えた。1587年の成政の肥後転封にも従ったが、改易後は能登羽咋郡飯山に住し、松原斎安と号す。子孫は前田氏に仕えた。松原直元と同一人物とゆう。

八代俊盛 やしろとしもり ?〜?
能登畠山氏家臣。官途は安芸守。弘治の内訌に巻込まれて椎名氏を頼る。1557年温井氏らの乱が起こると畠山義綱の援軍として能登に派遣され、そのまま畠山氏に仕えた。1566年の義綱追放に参加したが、のち義綱の奪回戦が始まるとこれに通じたため義慶方によって討たれた。

遊佐続光 ゆさつぐみつ ?〜1581
能登畠山氏家臣。官途は美作守。能登珠洲郡の領主で、七人衆の一人に数えられる。遊佐氏は畠山氏の重臣格の家柄で、河内畠山氏・二本松畠山氏の家臣にもやはり遊佐氏の名が見られる。1554年温井氏らと争い、一時敗れて越後へ出奔し、能登復帰を図ったが失敗して越前へ逃亡。1555年に政敵温井総貞が畠山義綱によって討たれると能登に復帰し、義綱に仕えて年寄衆。1576年から始まる上杉謙信の能登侵攻では主従一致して抵抗したが、やがて続光は謙信に内通して信長派の長氏一族を虐殺、孫の景光を人質として謙信に送った。謙信没後の1579年には七尾城を略取して信長に通じたが、1581年に菅屋長頼が奉行として能登に入部すると、隠れているところを捕らえられて斬首に処された。上杉氏に通じたことを咎められたとも、続光が信長に反したともいわれるが、長一族の生き残り連龍の暗躍があったのは確実であろう。

遊佐秀盛 ゆさひでもり ?〜?
能登畠山氏家臣。遊佐統秀の男。通称孫右衛門。1515〜1520まで能登守護代を務めた。1521年に越中に騒動が起こると、加賀一向一揆に味方して出兵し、神保慶宗・越中一向一揆らと戦った。

遊佐秀頼 ゆさひでより ?〜?
能登畠山氏家臣。遊佐秀盛の男。官途は豊後守。1532〜1544まで能登守護代。義総の奏者として将軍義晴との交渉に当たる。1554年に遊佐続光と温井紹春(総貞)が争うと続光に味方し、敗れて没落した。

遊佐統秀 ゆさむねひで ?〜?
能登畠山氏家臣。遊佐忠光の男。官途は美作守。能登守護代を務め、1477年五井兵庫頭が高座宮社領を押領して訴えられると、在京中の畠山義統に代わってこれを審理し、義統に裁許を求めて結審している。また連歌を好み、守護館や自邸での連歌会に列席した。

遊佐盛光 ゆさもりみつ ?〜1581
能登畠山氏家臣。遊佐続光の男。通称孫太郎・四郎右衛門。初め綱光。1554年に父続光が温井氏との政争に敗れて越後に出奔した際はこれに同道した。以後も父と行動を同じくし、1577年には上杉謙信、1579年には七尾城を占拠して信長を頼る。しかし、菅屋長頼によって捕らえられ父ともども斬首された。

戻る


[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ