アントナン・アルトー (Antonan Artaud)
マルセイユ(仏) 1896生 ― イヴリ・シュル・セーヌ(仏) 1948没

【略年譜】

1896年 9.4 マルセイユに生まれる。父親は小さな海運業を営む遠洋航海船の船長。母親はイズミル出身のギリシャ人。後に著書で扱うヘリオガバルス同様、父方の祖母と母方の祖母は実姉妹だった。
1901年(5歳) 転倒して頭を打ち髄膜炎となる。これにより神経質で苛立ちの多い性格を示し始める。
1903年(7歳) マルセイユのサクレ-クール寄宿学校に入学。
1905年(9歳) 妹が誕生するが7ヵ月後に死亡。
1909年(13歳) 父親の経営する船会社「アントワーヌ・アルトー」が倒産。
1910年(14歳) ボードレール、ランボー、ポーを耽読。同級生と雑誌をつくり、詩を書く。
1914年(18歳) 7月、抑鬱症をわずらいバカロレア2次試験を欠席。
1915年(19歳) 発作が相次ぎ、マルセイユ近郊の療養所に入院。
1916年(20歳) 兵役に就くが、翌年、夢遊症により除隊。
1918年(22歳) 『地平線、兵隊雑誌』に短い散文を発表。症状の悪化により療養所に滞在。
1919年(23歳) スイスの施設でデッサンや肖像画、静物画、風景画を描く。5月、初めてアヘンを吸引する。
1920年(24歳) 3月末、パリに赴く。トゥールーズ医師のもと、彼の雑誌『明日』の編集に参加(〜22年)。エノというペンネームで同誌に詩『夢の中』、散文『新教育課程の一案』を寄稿。5月、制作座にて端役で出演。ブロメ街でマックス・ジャコブ、ホアン・ミロ等と知り合う。
1921年(25歳)  『明日』に書評・美術評を発表。ダダに関心を抱き、アンドレ・ブルトン、スーポー、アラゴンらの作品に触れる。アトリエ座の前進グループを立ち上げたばかりのシャルル・デュランに受け入れられる。そこでジェニカ・アタナジウと知り合う。
1922年(26歳) アトリエ座の『守銭奴』『離婚』『宿屋』などに出演。5月、アトリエ座との関係が悪化するが、その後も出演は続ける。7月、マルセイユで開催された植民地博覧会でカンボジア女性舞踊団を観る。11月、ラスコーの紹介でダニエル・アンリ・カーンワイラーと出会い、『空の双六』手稿が気に入られ、出版契約。同じくラスコーの紹介でアンドレ・マッソンと出会い、ブロメ街に通ううち、ミシェル・レリスやデュビュッフェ、ジョルジュ・ランブールらと知り合う。12月、ジャン・コクトー翻案『アンチゴネ』(ソフォクレス作)でティレシアス役を演じる。ちなみにこの作品はピカソが美術、シャネルが衣装、オネゲルが音楽を担当していた。
1923年(27歳) 金銭問題でデュランとの仲がさらに悪化。2月、個人誌『ビルボケ』を創刊。3月末、アトリエ座と決別。シャンゼリゼ劇場と契約を結ぶ。5月、《N.R.F.》(新フランス評論)に投稿するも掲載を断られる。これをきっかけに編集長のジャック・リヴィエールと文通開始。金欠と抑鬱症で自殺を考える。ギャルリー・シモン社から『空の双六』出版。メーテルリンク『12の歌』に序文を寄せる。トゥールーズ医師の作品選集『偏見の流れに従って』の構成・序文を担当する。9月、病状悪化によりアヘン吸引を再開。シャンゼリゼ劇場にいたピトエフによるピトエフ座の芝居に出演。
1924年 (28歳) クロード・オータン・ララ監督の映画『3面記事』をはじめとしていくつかの映画に出演。4月、雑誌『コメディア』に「舞台装置の発達」掲載。リヴィエールより往復書簡の出版化を提案され承諾。父親他界。《N.R.F.》に掲載された「往復書簡」を気に入ったアンドレ・ブルトンと知り合う。11月、雑誌『シュルレアリスム革命』に参加。シュルレアリスム研究所に参加。
1925年(29歳) 1月、シュルレアリスム研究所の所長に就任。2月、リヴィエール他界。4月『シュルレアリスム革命』第3号「1925年、キリスト教時代の終焉」を出版。研究所の活動停止。アラゴン『窮地』をジェニカと上演。7〜8月、アルトーの署名入りシュルレアリスム宣言が新聞に掲載。『神経の秤』『冥府の臍』出版。
1926年(30歳) ジェニカと関係悪化する一方、ジャニーヌ・カーンと親密になる。ルイ・モラ監督の映画『さまよえるユダヤ人』にグランガレ役で出演。11月、 《N.R.F.》に「アルフレッド・ジャリ劇場」設立宣言を発表。同月、スーポーと共にシュルレアリスム・グループを除名される。



1927年(31歳) 『貝殻と僧侶』脚本執筆。6月 「アルフレッド・ジャリ劇場」旗揚げ公演。演目はヴィトラックの『愛の神秘』、アルトー『焼けた腹あるいは狂った母』、マックス・ロビュール(ロベール・アロン)『子沢山』。カール・ドライヤー監督の映画『裁かれるジャンヌ』に出演。10月、『ジャック・リヴィエールとの往復書簡』が《N.R.F.》より刊行。
1928年(32歳)1月、 「アルフレッド・ジャリ劇場」第2回公演。シュルレアリストと和解。ジュルメーヌ・デュラック監督の『貝殻と僧侶』上映、シュルレアリストたちと監督を罵倒し、騒動となる。
1929年(33歳)4月、『芸術と死』出版。5月『裁かれるジャンヌ』完全版公開。12月『シュルレアリスム第2宣言』刊行により亀裂深まる。
1930年(34歳)アルフレッド・ジャリ劇場をたたむ決意をかためる。6月、シナリオ『肉屋の反抗』を《N.R.F.》に掲載。
1931年(35歳)1月〜3月、レーモン・ベルナール監督映画『フォーブール・モンマルトル』撮影。病状の悪化を和らげようと占い師、魔術師のもとに通う。5月、ヴィトラックと激しい口論。8月、植民地博覧会でバリ島の演劇を見て「NRF」に短評を寄せる。12月、ソルボンヌで講演「演出と形而上学」、好評を博す。
1932年(36歳) 1月、ジャン・コクトー『詩人の血』試写会、ジッドと出会う。4月〜5月、セルジュ・ド・ポリニー監督映画『夜明けの銃声』撮影でベルリン。7月、新しい演劇計画のための宣言文、執筆開始。8月20日、宣言のタイトルが「残酷の演劇」に決まり、ジッドにテクストを渡す。10月 《N.R.F.》に「残酷の演劇」宣言が掲載される。
1933年(37歳) シナリオ『メキシコの征服』脱稿。『残酷演劇第2宣言』刊行。『ヘリオガバルス』執筆。11月〜12月、フリッツ・ラング『リリオム』の撮影。刃物研ぎ師及び守護天使を演じる。
1934年(38歳) バルテュスとの交遊。4月『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』出版。7月、ヴィトラック作『トラファルガーの一撃』劇評をめぐりヴィトラックとの仲がさらに険悪化、交遊に終止符を打つ。戯曲『チェンチ一族』執筆。
1935年(39歳) 5.7〜5.21『チェンチ一族』17回上演(フォリー・ワグラム劇場)。 この頃よりカバラ、など秘儀的魔術体系を引き合いに出すようになる。インディオ文化に関心をもちメキシコ旅行を計画。資金集めのためアベル・ガンス監督『ルクレチア・ボルジア』、モーリス・トゥルヌール監督『ケーニヒスマルク』に出演。これが最後の映画出演となる。11月、ロジェ・ブランの仲介によりブルトンと和解。
1936年(40歳) 1月、メキシコへ出発。途中、ハバナでヴードゥー儀式に参加、黒人の魔術師から短剣を授かる。メキシコ大学で3講演。メキシコ知識人との交遊。8月、シエラ・マドレ地区のタラフマラ族の領地に向けて出発。9月当地にてペヨートル経験。10月、メキシコシティに戻り、旅行記などを発表。11月、無一文となってパリに帰還。阿片の服用量が限界にまで達する。
1937年(41歳) 文学基金に救済を求める。4月、セシル・シュラムに求婚。5月、セシルとブリュッセル訪問。セシルの両親が出席した講演でイエズス会士に自慰行為の効果を語り、婚約解消。ブルトンとの関係が回復し、さまざまな援助を受ける。8月、アイルランドのアラン諸島に渡る。9月、カトリック信仰への回帰傾向を示すが、一方で極度の被害妄想に襲われ騒動を起こす。警察との乱闘で6日間入獄、強制退去命令を受けて船に乗るが、またも烈しい被害妄想を抱き、ハバナで入手した短剣で乗組員に襲い掛かり、ル・アーブルに到着して即座に強制入院。10月以降、9年間にわたって精神科医院に入院。
1938年(42歳)、2月『演劇とその分身』出版。4月パリのサン・タンヌ病院に移送。さらにアンリ・ルーセル医院に預けられる。ロジェ・ブランの依頼でジャック・ラカンが診察、治癒不可能と診断された模様。
1939年(43歳) 2月、ヌイイ・シュル・マールのヴィル・エヴラールの精神科医院に移送。43年1月まで当医院に入院。41年までに家族のほかロジェ・ブラン、ジャクリーヌ・ブルトン、アラン・キュニー、ロバート・デスノス等の面会客に会う。39年9月以降、戦争により諸状況が悪化。病院では食料不足で多くの入院患者が亡くなり、アルトーも栄養失調に陥る。
1943年(47歳) 2月、ロデーズ精神科医院に移る。環境が改善し、健康状態が回復する。敬神表明と反キリスト的な罵倒を交互に繰り返し、性行為の罪を非難。3月頃?、ジョルジュ・バタイユ『内的体験』を読み、彼に手紙を送る。6月よりガストン・フェルディエール医師がアルトーに対して電気ショック療法をこころみる。3度目の電気ショックで骨折、2ヶ月間寝たきりの生活を送る。10月より執筆活動を再開。同じ頃、デッサンも始める。
1944年(48歳) 2月、木版画をいくつか描く。キーツの翻訳やサウスウェル、ポーの翻案。電気ショック療法をたびたび受け、歯がすべて抜ける。11月より頻繁に腸から出血。
1945年(49歳) 1月、ボードレールやネルヴァル、ポーを再読。 4月1日、カトリシズム及びあらゆる宗教を放棄。9月、ジャン・デュビュッフェが面会に訪れる。 9月〜12月、アンリ・パリソと文通(翌年『ロデースの手紙』として出版。11月、デュビュッフェとジャン・ポーランがアルトーを別の医院に移す働きかけをおこない成功。
1946年(50歳) ロデーズを訪問したマルト・ロベールとアルチュール・アダモフに対し、フェルディエール医師はアルトー退院の条件として安全な住居と経済的保障をあげる。アダモフはポール・テヴナンに住居手配を依頼。4月『ロデーズからの手紙』出版。5月25日、ロデーズを出発し、パリに帰還。デルマ医師の療養所で出入り自由の暮らしを確保。6月、ポール・テヴナンと会う。アルトーのための展示即売会、オークションが開かれる。7月、「精神異常と黒魔術」録音、ラジオ放送。8月1日、ガリマール出版と全集出版の約束を交わす。この頃「悪魔の手先と処刑」に入るテクスト執筆。9月、マルト・ロベールやコレット・トマ、ポール・テヴナンとサント・マキシムの別荘に2週間滞在。10月、『ジャーナリストとそのくだらぬ読者に抗うシロフォンの音』出版。
1947年(51歳)、1月講演「アルトー−モモの体験談・差し向かいで」。2月、オランジュリー美術館で開催の『ヴァン・ゴッホ展』を鑑賞し、「ヴァン・ゴッホ、社会が自殺させた者」の執筆開始。7〜9月、マーグ画廊のシュルレアリスム展。ブルトンから参加を求められるが断る。7月ピエール画廊で「ポートレートとデッサン」展。12月、フランス国営ラジオ局と『神の裁きと訣別するため』放送契約を結ぶ。『アルトー・モモ』『ヴァン・ゴッホ』出版。
1948年(52歳) 1月反魔術テクストを数多く執筆。『ヴァン・ゴッホ』がサント・ブーブ賞を受賞。腸の具合が悪化。
2月、 『神の裁きと訣別するため』放送禁止。3月3日、シャラントン在のポール・テヴナンを訪ね、全著作の版権を委任。翌3月4日、ベッドの袂で遺体が発見される。 




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