![]() 語り部 K.Yさん(89) |
| 先人の道シリーズ第6回 高崎太七先生 会うと身内に会ったような、何かほっとする先生でした。鎮亜の教会に住み込んでいた私が、においがけ(布教伝道)をしていても、後ろからそっと付いて見守り、 「結婚前の貴女が気がかりだったから」とおっしゃるような、無口ながら行動でまこと真実を示す先生でした。その一方、お道の話しをされるときには、熱が入ると手前の火鉢をどんどん押しやって、相手の方が玄関へ落ちたという逸話があるほど、熱心でした。 終戦後、郷里の熊本県南関町に引き上げていた私のもとへ、大牟田市の八津田分教会から歩いて3時間、おいでてくださいました。結核性関節炎でひざが曲がらなかった先生には、山道はさぞかし大変であったと思います。先生は、戦後頭が上がらず、光があた ると身体に障る身上(病気)をいただき、窓を閉めきった部屋で療養していました。折りしも西鎮の教会で始まった神殿ふしんに「頭の身上だから、げんのうの川流れ(かなづちが川に投げ込むと頭を川底につけて流れていくことから、どんな中も低い心で通ること)の精神と瓦代の責任を持つと心定めをしたところ、長年の身上をご守護いただいた」と話し、「北九州市へまた出てこないか」とねんごろにお話し下されました。その声を頼りに、再度北九州市に出て、東亜の教会にお世話になりました。教会は、まことに清貧の道中で、その日ご守護があれば食べられるし、なければないという毎日でした。そうした中に、東亜の信者である山田さんの食堂を手伝い、その縁で一昨年出直した(亡くなる)主人と結婚しました。主人は大病に継ぐ大病、また店は全焼するなど、さまざまな節がありました。そのたびに高崎先生と鎮亜の土井司朗先生にお導きをいただきながら、八十九歳の今日までお連れ通りいただきました。高崎先生は、その後曲がらなかった足も曲がるようになり、正座も不自由なくなりました。「お腹を痛めてないので心を痛めなさい」と吉福ヤス先生に仕込まれて迎えた澄夫先生に東亜の会長職をお譲りになった後は、西鎮におつとめでした。親代わりの先生は、どこまでも道の人として通り、西鎮の神床を枕に出直しました。最後まで素晴らしい先生でした。 |
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